月別アーカイブ: 2007年3月

東京都知事選

本日東京都知事選の立候補者が告示された。東京新聞では、3選を目指す現職石原真太郎氏と、前宮城県知事浅野史郎氏、共産党推薦吉田万三氏、建築家黒川紀章氏、ドクター中松氏ら4人の新人候補との対決がクローズアップされている。しかし、実際の選挙には泡沫候補を含めて14人も名を連ねているのだが、マスコミからは蚊帳の外に置かれている。
しかし、「その他」の中に、『僕の高校退学宣言』の著書で有名(?)な外山恒一氏が立候補していた。90年代半ば頃は新左翼崩れのアナーキスト系活動家と思っていたが、ホームページを卒読する限り、現在では国家権力に断固抗するファシストを目指すということだ。現職石原真太郎氏が「東京から日本を変える」とスロガーンにしているが、もし万が一外山氏が都知事になったら、彼こそ確実に東京は変えてしまうであろう。
果たしてこの先、一体、彼に何人の人たちが賛同の意を表明するのか注目していきたい。

□ 前衛政治家・外山恒一ブログ □

『女はなぜ突然怒り出すのか?』

診療内科医姫野友美『女はなぜ突然怒り出すのか?』(角川Oneテーマ21 2006)を読む。
女性の共感的受容的感情や他者からの評価に対するストレス、また、「報酬系ドーパミン」による快感回路などの話を、医学や心理学に全く疎い者にも分かりやすく説明している。
男は「競争社会に勝ち残るためにがんばる」ことを強いられる存在で、結果、狭心症や心筋梗塞などの心臓病で倒れることが多いそうだ。一方、女性は「みんなのために、なんでもがんばる」ことが暗黙に要求され、心身に疲労をため込んでしまい、自律神経失調症などになるリスクが高いという。確かに言われてみれば同じ「がんばる」にしてもそのベクトルが異なることが実感として分かる気がする。こうした男女の違いには気を配っていきたいと思う。

□ ひめのともみクリニック 公式サイト □

『風の王国』

五木寛之『風の王国』(新潮文庫 1985)をもうかれこれ15年ぶりに読み返す(つくづく私も馬齢を重ねたものだ)。いつの間にやら32歳という主人公の年齢を超えてしまっていた。本の見返しのページに、実家の近くの古本屋のシールが張ってあった。私は高校時代から数えてつごう8回引っ越しをしているが、にもかかわらず共に過ごしてきたのかと思うと、いろいろ感慨も深い。

この日本という近代国家に、戸籍登録もせずに山や谷あいを放浪しながら生活する山窩と称される一族がいるという設定である。

京都 奈良

仕事の関係で、京都、奈良へ旅行に出掛けた。
「暖冬、暖冬」と言われ続けた今冬であるが、雪の舞い散る中の散策であった。雪景色の金閣寺や夜のライトアップされた清水寺、横殴りの雪の中を突っ切って京都市内から天橋立に向かってレンタカーを駆るなどいささか破天荒な旅行であった。小式部内侍の「おほえ山いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立」の和歌で詠み込まれている京都市内から天橋立までの距離感を確かめてみたいと思った。クルマでとばしても2時間近くかかる道のりで、昔の人にとっては異国へ旅するようなものであったろう。そうした遥か彼方の景色までの旅程を31文字で表現してしまう作者の構成力は素晴らしい。

天橋立 股の下から

 

さて、股の間から見る天橋立は幻想的な光景にうっとりするというよりも、現実の自然の持つ力にただただ感嘆するだけであった。「天に向かって掛かる橋」といった安っぽい宣伝文句に騙されるのではなく、まさに月の引力が引き起こす波と、河が運び出す土砂とのぶつかり合いという、海と山の自然の大きさに素直に圧倒されればよいのである。

夜のライトアップされた清水寺

荘厳な雰囲気の漂う清水の舞台 清水寺前でパチリ

聳然と立つ東大寺

東大寺吽像

東大寺阿像

奈良の大仏

興福寺

猿沢の池

本日の東京新聞夕刊

本日の東京新聞夕刊に、知的障害を抱えた二男を殺害した72歳の父親の裁判の悲痛な記事が掲載されていた。
新聞記事によると、被告の男性は定年後もローンの返済のため働き、日常生活にも常時介護が必要な先天性の脳性まひを抱える32歳の二男の面倒をみていたということだ。しかし、昨年7月に日常生活や授産施設への送迎などの面倒をみていた妻が末期ガンで入院したことで、「家内がいなくなったら、二男は一人では生きていけない。私も年でこの先長くない。二男を殺して自分も死のうと思った」と考え犯行に及んだしまったようだ。当日は朝から二男とテレビを見て、昼食はラーメンを作り一緒に食べ、午後、長女の不在を確認してから二男の胸にナイフを突き刺したそうだ。犯行時の父と息子の模様を思い浮かべるだけで胸が詰まる。二男は「痛いよ、父ちゃん」とつながった言葉を話したことに被告の父親は驚き、「後から行くから待ってて…」と答え自分の胸も刺したとのこと。

被告は最終意見陳述で「二男は私の半分も生きていない。これからいいこと、楽しいことがたくさんあったと思います。子供たちの幸せをめちゃめちゃにした父親は失格です。一生償っていきたい」と述べた。
検察側は「介護の悩みから逃れるための安易で短絡的な犯行」と懲役十年を求刑したとのことだが、果たして本当に責められるべきは当の父親であろうか。貧困な福祉行政しか展開できていない市や県の責任は? そうした市長や県知事、議会を選択している私たちはどうなの?