今日の東京新聞の朝刊に、「市町村合併をしない宣言」で有名な福島県矢祭町の町商工会の珍しい誘客サービスが紹介されていた。大型店に客を奪われ経営が苦しい地元商店街の発案で、加盟店で買い物の際にもらえるスタンプを集めるとその分だけ納税に使えるというシステムである。納税は現金か証券に限るという地方税法の規定があるため、納税の直前にスタンプを商工会から預託された小切手に換えて納入するとのことだ。
スタンプを現金に換えるのは日本全国行われていることだが、それを役所がバックアップするというのはめずらしい。このような地方公共団体と一体となって地域通貨運動を展開できたならば、柄谷のNAM運動も少しは実を結ぶことができたのだろうかとふと考えてしまう。
月別アーカイブ: 2006年9月
『あえて英語公用語論』
船橋洋一『あえて英語公用語論』(文春新書 2000)を読む。
タイトルは過激で、「日本語に替わって英語を話せと言うのか」と即批判の来そうなタイトルであるが、中身は言語と国家や政治、教育のあり方を他国の例を交えながら丁寧に論じている良書である。英語うんぬんを抜きにしても読む価値がある。
著者は日本人の英語能力の低さが、結果として日本の世界からの孤立を招きかねないと警鐘を鳴らす。
「言語的孤立」の恐ろしさは、それがえてして国民の間に「言語的孤立感」から来る被害者意識と犠牲者意識をもたらし、排外主義を噴き出させかねないことにある。日本はあまりにも特殊だから無理だ、どっちみち日本は理解してもらえない、何を言ってもダメだ、という無力感を疎外感を生み出しかねない危険である。
言語とりわけ公用語というのは、カナダやフランスなど多くの国で、少数民族の分離独立の引き金となったり、また植民地支配の帝国主義の道具して用いられたりしてきた歴史がある。イギリスのインド統治の際の言語政策は「われわれと何百万というわれわれが統治する人々との間の通訳する階級=血と皮膚はインド人であるが、趣味、意見、価値観、知性は英国人である人々からなる階級=をつくることをねらいとする」ものだったそうだ。また、他民族国家のアメリカでも「他言語、他文化状況は、米国の国家と社会を分断させる恐れが強い」と1983年には「英語第一(English First)」なる団体も創設されてる。
船橋氏は、言語というものは「一方がうまくなると片方が下手になる、英語はできるようになるが、日本語がだめになる、というゼロ・サム関係ではない」のであり、二つの言語を並行して学ぶことで、物事の意味を分析しようとするようになる。また、日本語を英語に言い直したり、また英語でもって日本文化を捉え直すことで、思考の振り幅を広げることができると述べる。さらに、今後は日本も他民族主義・他言語主義にならざるを得ず、日本の国家像は「多元的、かつ多様で、開かれたアイデンティティ」が望ましいと主張する。非英語圏の人も共通語として使うようになった「英語たち」を第二の公用語として明確に位置づけることで、逆に第一公用語の日本語を守り、またいたずらな米国追随にならない日本外交を保障する道筋にもなるとまとめる。
一方的な立場から他方を否定するような物言いをすることなく、丁寧に論理を積み上げていく文章力には脱帽である。是非他の著書も読んでみたいものだ。
『医者だからこそ話せる 病院の掟』
今日の授業は「医学一般」であった。生活習慣病や精神障害、認知症の原因と対策など断片的な知識しかなかったが、元医者の教授が語るだけあって、ポイントをしぼって説明してくれたので、うまく整理することができた。
今日の大学からの帰りに、武蔵野線の新秋津駅から大宮駅まで「むさしの号」という直通の電車で帰ってきた。ボックス型の座席で田園風景から都市へとその背景を変える黄昏を横目にちょっとした旅情気分を味わった。
富家孝『医者だからこそ話せる 病院の掟』(日本文芸社 1999)を読む。
医師でありながら医療コンサルタント、新日本プロレスリングドクターなど幅広い活動をこなす著者が、病院や医者に対する聖域聖者幻想から逃れられない読者に対し、日本の病院の内情を暴露する。医者余剰の昨今、医者を食わせるために、病院も経営論理を優先せざるを得ず、効果もない人間ドックやせこい保健点数稼ぎで顧客の獲得に奔走しなければならないようだ。
著者はそうした現状に対し、一年間病院に行かなかった人に報奨金を与えるなど、国民に自助努力を課し患者の数を減らすことが、無駄な健康保険料の支出を防ぐ改革の出発点になると述べる。そして、同時に医師国家試験をもっとシビアなものに改革して医者を減らし、力量に応じた賃金体系を組むなどして医者の間に競争を仕掛けるなど、医療全体の構造改革が大切だと述べる。国民の側に医療そのものに対する幻想めいたものがある以上、なかなか医学界外部からの改革は難しいであろう。著者のような内部からの提言が効果的である。
『障害児を育てる』『危ない公文式早期教育』
今日から社事大での授業が始まった。「障害者福祉」の授業ということで期待して臨んだのだが、その内容たるやがっかりであった。ただただ6時間ぶっ通しで、パワーポイントの文字だらけの画面を棒読みするだけの授業であった。ほとんど聞かずに自学自習に励んだ。国連での障害者運動の展開や様々な在宅・施設の福祉施策、障害者手帳について大まかだがまとめることができた。学習する分野が限られているので、授業後のテストで8割取ることができた。1月の国家試験をどうしようか、まだ結論は出ない。。。
幼児教育についてのちょっと対照的な本を読んだ。
茂木俊彦『障害児を育てる』(大月書店 1984)と保坂展人『危ない公文式早期教育』(太郎次郎社 1994)の2冊である。
前者は、子どもの障害にばかり目が行ってしまう過保護な障害児の親に対する子育ての指南書である。平易な語り調で、障害を持っているとは言え、子どもは年齢を重ねるにつれて日々成長していくものであり、子どもができないからといってやることなすことにすべて手助けしてしまうことは子どものためにならないと述べる。現在のノーマライゼーションや特別支援教育を先取りするような事柄を述べており、一読に値する本である。
後者は、ゼロ歳児から2歳までの乳幼児を対象とした公文式教育に批判を投げ掛けた本である。親の都合で文字や数のインプット教育を徹底することにより確かに言葉は早く覚えるが、社会性や主体性の欠如した子どもになる可能性が高いと保坂氏は述べる。カードをパッパッと見せるフラッシュカードや膨大な数のプリント学習は小学生には一定の効果があっても、幼児にはデメリットの方が多いと実際の公文式の指導者も答えている。保坂氏自身、現在は議員として文部科学委員会にてインクルージョンや抜本的な交流教育のあり方を提案しており、その批判の土台は、徹底した遊びの中にこそ育ちのきっかけがあるとする障害児教育に根を下ろしているようだ。
片や子どもの障害に捕らわれ、子どもに過保護なり過ぎている親について、片や子どもの数値で計りやすい読み・書き・計算能力の向上に親の生きがいを求め、子どもの自由な遊びを否定する親のあり方について述べるが、その問題の根っ子の部分は同じような気がする。IQが高かろうと低かろうと、子どもの成長年齢に応じた触れ合いや遊び、他者との関わりが大切なのである。少子化の中、子どもが少ない分だけ逆に加熱する育児であるが、子どもに対する隔てない愛情と少し冷めた判断が求められる。
「障害者福祉論」
いよいよ、明日より日本社会事業大学社会福祉士養成課程の後期スクーリングが始まる。今年の1月に知的障害者更生施設の現場実習に行って以来の福祉の勉強である。幸いにも職場と家庭の理解を得て学ぶことができることに感謝し、無事に全日程を終えたい。一日でも休んでしまったらまた翌年に再履修の憂き目にあってしまう。明日は日程の中で一番関心の高い「障害者福祉論」である。今日は早く寝て明日に備えよう。
今夕、娘を連れて二人だけで大宮のそごうに行ってきた。残念なことに東武線の春日部駅にも八木崎駅にも設置されているエレベーターが、俄然乗降客の多い大宮駅には設置されていないということだ。駅員の案内に従って、隣接する駅ビルのルミネのエレベーターを利用することになった。先日電車で実家に帰った際に分かったのだが、渋谷駅にもホームから改札に上がるまでのエレベーターは設置されていなかった。エスカレータがあるのでよしとされたであろうが、車椅子やベビーカーを利用するものにとっては、人手を患わすエスカレータよりもエレベータの方が気楽で良い。東武鉄道の善処を期待したい。