大学の帰りにさいたま新都心で『ゲド戦記』(東宝 2006)を観に行った。
冒頭にドラゴンが雲間を切り裂いて登場し、続いて、世界支配をたくらむ魔法使いのボスや、剣を片手に旅を続ける少年が現れるなど、少し昔のファイナルファンタジーやドラゴンクエストなどのRPGゲームの映画版を観ている気分であった。途中効果音の効いた戦闘シーンや感動的な出会い、運命的な別れの場面も挿入され、話の展開もRPGゲームそのものである。また「風の谷のナウシカ」を彷彿させるところも多く、古き良き宮崎アニメの趣が漂う。最後は魔法使いのボスを倒してハッピーエンドを迎えるのだが、まさに予想通りの展開で、かえって安心して観ることができたように思う。
月別アーカイブ: 2006年9月
『負け犬の遠吠え』
酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社 2003)を読む。
男は仕事、女は結婚・育児という保守的な人生観がここ10年くらい息を吹き返しつつある。「30代、独身、子どもなし」という「負け犬」人生を歩むことになった30代後半の女性の悲哀を諧謔交えて描く。
話を読み進めながら、「負け犬」の30代後半女性は、就職氷河期で正採用のチャンスを逃し、派遣やアルバイト生活を続ける20代後半から30代にかけての「ニート」に大変近いと思った。どちらも80年代後半のトレンディドラマに出てくるような派手な恋愛やサラリーマン、OLの仕事姿に憧れ、理想と現実のギャップを受け入れることができないでいる。どちらも人事担当や上司からの仕事や人柄の評価、また独身男性からの容姿やかわいさの評価を得ることができない。そして、そうした一面的な評価を人格そのものの否定と受け取ってしまい自身を失いかけている。
しかし、そうした一部の評価を過大に受け取ってしまう「負け犬」の捉え方の背景に、日本の社会のせちがらさ、また多様な視点で受け入れてもらう経験の場が少ない日本の教育の貧困さが伺える。著者自身が教育やマスコミが作り上げた一面的な格差のカラクリに気付き、開き直って執筆していることに、読者は救われる。
金井先生の講義
今日のスクーリングの授業の一つは、日本でナイチンゲール思想を現場に活かすための研究をしている金井先生の講義であった。
ナイチンゲールは子ども向けの伝記などを読むと、「白衣の天使」と心優しい看護師の母ぐらいにしか考えられていないが、実際は社会学的アプローチによる貧困層や福祉の調査や看護理論の研究に後半生を費やした人である。金井先生はそのナイチンゲールの思想に着目し、看護をベースに介護の理論を土台として、個々の利用者を看るための方法論を構築しようとしている。その詳細は「KOMI理論」としてまとめられている。介護職の人たちにもかなりの専門性を求めるものであり、介護職の自立に向けた一つのありようとして注目していきたい。
エビアレルギー
今日の夕飯は、子どもの睡眠リズムのおかげで時間がずれてしまい、一人近所の回転寿司のお持ち帰り用のセットを食べることになった。途中、貝らしきネタを口にしたところ、口の中がぷちぷちとかゆくなってしまい、2時間経た今も違和感が残っている。数年前から同じ症状になることがあり、ネットで調べてみたところ真相が判明した。どうやら貝らしきものの正体は炙り生エビで、私はエビアレルギーなのだそうだ。甘エビもエビフライも全く平気なのだが、唯一生エビにだけ反応がでるようだ。日本人の7〜8人に1人が持っている最も多いアレルギーだということだ。好き嫌いが全くなく何でも残さず食べるのが信条だっただけに、エビアレルギーという事実は少々ショックであった。
『精神科医を精神分析する』
佐藤幹夫『精神科医を精神分析する』(洋泉社 2002)を手に取る。
著者は養護学校教員を長く務めた経験から、精神科医に対する拭い難い不信感が堆積しており、テレビや雑誌で犯罪者の心理をさも分析的に語り、異常者を意図的に作り出そうとする「タレント精神科医」に強い怒りを覚えるということだ。斎藤環、町沢静夫、斎藤学、和田秀樹、福島章、小田晋のそうそうたる6人に対して堂々と反論を展開する姿勢は評価しても良いだろう。しかし、30頁ほど読んだところで、あまりに一人称的な語り口に嫌気がさして読むのを止めてしまった。もう少し編集サイドで読ませる工夫が必要だろう。
著者が批判の対象としてあげている一人の斎藤学(さいとうさとる)氏は、東京新聞にも連載コラムを持っており、よく目にする精神科医である。犯罪の病理が全て個人の歪んだ心理に求められる、と鮮やかな分析をする人だなと思っていたのだが、少し注意して読む必要がありそうだ。