月別アーカイブ: 2005年10月

『大学サバイバル』

古沢由紀子『大学サバイバル』(集英社新書 2001)を読む。
急激な少子化による生徒募集に苦しむ私大のみならず、小泉内閣の「聖域なき構造改革」によって独立採算を迫られる国公立大学、また、大学への格上げを切望する短大や高専の学長などの「大学」を巡る状況について、読売新聞の記者である著者が自分の経験を相対化しつつ、わかりやすくまとめている。
著者は、昨今の大学について、「大学の種別化、機能の分類といったことが自主的に行なわれていかないと学生にとっても社会にとっても無駄なコストが大きすぎる」と現状維持に批判を加える。そして、「エリート教育」や「技能育成大学」「生涯学習対応型大学」「社会人教育大学院」などの実践例を挙げ、大学内部だけではなく、大学を捉える社会の視線自体が多様なものになった以上、「社会への貢献」を前提とする大学も多様化せねばならないと主張する。まとめにすらならない結論である。しかし、教育論に共通する事であるが、各世代、男女、文系理系、国公立私立……、人の数だけ大学に対する思いはばらばらである。各人の経験に基づく極めて主観的な「あるべき大学像」から、いかに脱出できるかと言う点に、大学改革の鍵があるようだ。

『校長がかわれば学校が変わる』

久保田武『校長がかわれば学校が変わる』(夏目書房 1997)を読む。
教育困難校の汚名を負っていた都立羽田高等学校(現都立つばさ総合高校)の校長として赴任した著者が、「入りやすい学校から入りたい学校へ」のスローガンを掲げ、清掃指導の徹底やコース制の導入など先陣を切って改革を進め、魅力溢れる学校づくりに献身的に取り組んだ経緯が綴られている。
これまでの教育の荒廃の原因は、猫の目的な政策しか打ち出せなかった文科省や硬直化したスローガンから逃れられなかった革新系組合のせいではなく、年齢や職歴による順送りの人事制度に固執する愚鈍な校長会にあったと批判を投げ掛ける。採用や昇進の段階で役人や一般教員は一応能力による選抜が行われるが、校長会は旧帝大や筑波大の学閥で固められている。そうした影響もあってか、少しでも偏差値の高い学校への異動を目論み、自校の教育に関心のない政治屋的な校長が生まれたり、文科省や都道府県の役人の言うことは聞かず、さりとて組合所属の教職員も説得できない校長が出てきてしまったと分析する。教育委員会の幹部が、校長会をないがしろにして、組合の幹部と内密に話し合うということもよくあるようだ。出世に勤しむ管理職や権利ばかりを主張して憚らない怠慢教師の増加が公立学校の質的低下に繋がっているという指摘には共感できる部分が多い。しかし、こうした議論の先にはいつも「教育とは何か」という永遠の命題が待ちかまえているのだが……。

『ネコをしあわせにする人、困らせる人』

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武藤眞『ネコをしあわせにする人、困らせる人』(実業之日本社 1998)を読む。
飼い主の一方的な愛情や、過保護な飼育方法が逆にネコにストレスを生じさせている例を多数紹介している。特に野生や本能を押さえ込まれてしまう家猫について詳しく述べている。私の家猫マルクスの堕落した生活の改善には飼い主の自覚も大切であると実感した。

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我が家の駄猫マルクス

"MUSICRUSADERS"

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最近、通勤の車中でビートクルセイダーズにはまっている。ボーカルのヒダカトオル氏のかすれた声と、勢いのある曲が気に入っている。全曲英語詞であるため、ボーカルも楽器の一つのようで、ノリの良さが際立っている。

『最強格闘技の読み方』

秋吉悟空『最強格闘技の読み方:K−1バーリ・トゥードを通して見る』(ジャパンミックス 1996)を読む。
K−1ブーム全盛の頃に書かれた本で、キックボクシングや極真会館のファン層を奪い取った正道会館や、打倒グレーシーを掲げてアルティメットルールに傾いていくプロレス団体の当時の状況についてかなり正確にまとめている。現在のK−1やプライドを見るにあたって、修斗や極真だけでなく、UWFや全日本キック、新空手など現在では日の目を見ない団体の選手の活躍があったことを考えると、また違った見方もできるのではないか。