月別アーカイブ: 2004年5月

『「新しい学力観」の読みかた』

坂本忠芳『「新しい学力観」の読みかた』(労働旬報社 1993)を読む。
臨教審の流れを組む新自由主義的な教育観と日本人としてのあるべき姿の「道徳」を重んじる保守的な教育観の二つの流れを受けて作られた、歴代最もどうしようもない1989年改訂の学習指導要領を批判的に論じた本である。89年の学習指導要領は教育内容を厳選し、「生活科」など旧来の知識詰め込み型の教育を脱し、「関心・意欲・態度」を伸長させることを主眼に置いている。

しかしそうした管理的な「態度重視」教育は、できる子はできる子なりに、その能力を現在の体制が要求する方向に、すなおに能動的に行使する子どもを生み出し、「労働力の再編成」の中で、子どもの選別のハードルに用いられると作者は危惧する。

今日の国際社会の中では、「関心」や「意欲」や「態度」こそが労働力として、また、大国日本を支える力として、たいへん大事になっってきているという認識がそこには働いています。労働力についていえば、「関心」や「意欲」や「態度」は労働力そのものだという考え方がそこにはあります。いままでは「知識」や「技能」が、やがて生きて働く労働力の基礎なのだと思われていました。それも大事だけれども、そういうものだけではだめだと考えて、臨教審の提唱する「自己学習力」や「自己教育力」、さらに進んで「関心・意欲・態度」の重視という方向が、はっきりと打ち出されてきたと思うのです。

作者は「子どもらしい人間らしい生活力と学力をつけることのできる地域と学校とを、親と教師が今日の学校の管理主義とたたかいながら、共同してどのように創造していくか、という展望のなかに位置づけなければならない」とし、模索すべき教育の方向として次のような私見を提案する。現実性はさておいて、一度は意識しておいてよい意見である。

おとなが一方的に用意したものにたいして、子どもにどう等しく到達させるかなどというような、非常にかたくてせまいこれまでの学習と評価の考え方から、一回は解き放たれて、いったい子どもは何を考えているのかを根源的に考えるような、おもしろい教材や発問を、おとなが逆に子どもから学び、子どもから啓発を受けながら、一つひとつの教材を具体化していくということが、これからは決定的に大事になっていくと思うのです。

一つひとつの学習、たとえば「1+1=2である」ということをわからなければならないのはなぜか、なぜこんなことを勉強するのかということは、結局、この地球のなかで地球を存続させ、そして世界中の人たちがともに権利を主張しながら、同時に生きるというのはどうしてか、ということと関係しているとも思うのです。
人間は同時存在性というものを本質に持っていて、暴力や戦争に依拠しないで、平和を維持しながらみんながともに生きていくというところに問題を凝縮する。そういう意味で、最低限必要なものを徹底的に厳選すると同時に、あらゆる教材を選ぶときに、あるいは評価のためのテストをつくるときに、学習活動のなかでこういう「根源的な問い」を子どもたちが発するように工夫していくことが重要ではないかと思います。

今日の学力問題を、”地球が存続できるかどうか”という課題に凝縮すべきだと思います。たとえば宇宙の中で地球という「自然」が、いま存続できるかどうかという問題に、すべての基礎・基本の問題を凝縮させていくといったことを考えるのです。そして、そのことを、現代の日本人の生き方の問題として考えていく必要があると思うのです。

『ドーン・オブ・ザ・デッド』

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昨日ザックスナイダー監督『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004 米)を観に行った。
怖いホラー映画と思っていたのだが、いわゆる「ホラー映画」ではなく「ゾンビ映画」とでもいうべきカテゴリーに入るものであった。いかにもアメリカ人が好きそうな場面展開を交えながら、ゾンビの大群に囲まれたショッピングモール内では,未感染の登場人物のエゴがぶつかりあう人間ドラマが繰り広げられる。

『ひとりを愛し続ける本』

遠藤周作『ひとりを愛し続ける本:女の才知・妻になる才覚とは』(青春出版社 1986)を読む。
『婦人画報』に連載されたコラムに加筆推敲を加えたものであり、当時の主婦に対し、恋愛と結婚はやはり別物であり、結婚生活には過大な期待をしないことを説く。

結婚生活に情熱は存在しない、存在しえない。では何があるか。情熱のかわりに連帯感と多くの男(女)のなかからこの男(女)が自分の人生の伴侶者になったという不思議な縁の尊重を大切に大切にすることでしょうね。それを出発点として時には自分の心をゴマかし、ダマし、とも角もこの共同生活を続けていく努力と忍耐を捨てぬことでしょうね。

「『楽しい』授業の隘路」

鈴木隆弘「『楽しい』授業の隘路」(『現代思想』2004年4月号)を読む。
鈴木氏はこれまでの画一化教育を支えてきた「教員→生徒」の一方的な知識注入型の学びのスタイルや、障害者や在日外国人、被差別部落などの差別問題に対して「差別しない心を持とう」といった現実捨象型の解決策提示の人権教育が限界を来していると指摘する。

「正しい答え」があるというような従来の教育では、新しい差別問題が発生するたびに、その具体的内容について教えなければならなくなってしまう。しかし、そういうことは果たして可能であろうか。予想困難な事態に対して子どもたちを無防備に晒すわけにはいかないけれども、従来の教え込み型の授業では予想不能の問題に対処する、そのような能力を身につけさせることができなかった。だから、自ら差別を許さず、立ち向かい、解決する「能力」を身につけさせる教育が必要になったのである。そこから「動機付け」「行動させるための技能」といったものを重視するようになった。

鈴木氏が引用の後半部分で述べる「解決する能力」「動機付け」は1998年施行の学習指導要領改訂の目玉であり、「新学力観」に基づく「総合的学習時間」の前提をなすものである。昨年10月の中教審答申「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善の方策について」の中では、「主体性溢れる問題解決能力=生きる力」を育む上でのポイントについて次のように述べられている。

子どもたちが…@知識や技能を剥落させることなく自分の身に付いたものとする、…Aそれを実生活で生きて働く力とする、…B思考力・判断力・表現力や学ぶ意欲などを高める等の観点から、知識や技能と生活の結び付きや、知識や技能と思考力・判断力・表現力の相互の関連付け、深化・総合化を図ること

しかし、鈴木氏は

単なるプレゼンテーションをして「楽しい」授業を実践するだけの昨今の「綜合学習」的な授業スタイルは、「教室の学び」に「参加」を促すだけであり、社会への参加につながらないと述べる。そして真の参加型教育−社会変革のために行動していく主体性の育成−について以下のように結論づける。

地域の課題と向き合い、政治的にも解決することを通じて、子どもの社会化や自律を促進するための社会参加、社会全体の変革のための社会参加、学校教育変革のための参加の全てを通じて育成される、政治参加への意識と能力を育てることが重要である。そのためには、教育目標にある政治性を抜き去ろうとするのではなく、むしろそれを明確にして、教員は、学校、そして社会全体に対して、子どもたちが継続的にアプローチするための支援をしなくてはならないのではないか。そのように社会に「参加」して初めて、「参加」するスキルが身に付くのではないだろうか。

鈴木氏自身「参加型授業」のモデルを提示することはしない。