高木正幸『全学連と全共闘』(講談社現代新書 1985)を読む。
タイトル通り、60年の安保闘争の高揚、そして68~69年の全共闘運動を時には反権力の立場で、時には反代々木の立場から、新左翼へのシンパシーを素直に表明しながら語る。著者は全共闘運動というものを次のように定義する。全共闘的な思考形態を通過したものは、運動から離れても、物事を根源的に見ようとする全共闘的な発想が抜けることがないとどこかで聞いたことがあるが、私自身の物事の捉え方を省察するに頷かざるを得ない。
全共闘運動の、さらに大きな特色は、それまで学生運動をすすめてきた政治党派などの、何らかの勝利や獲得をめざす闘争方式よりも、闘争にかかわる個人の思想や行動に主体がおかれたという、理念の問題である。それは、党派や指導部によって組織されたものではなく、参加者一人一人が自らの決意と責任によって結集したという闘争形態と必然的に結びつくもので、学生が自らの存在について自ら問いかけ、自らがかかえる犯罪性、欺瞞性について暴露してゆくという論理である。「自己否定」あるいは「自己変革」という言葉が、このような考え方から全共闘運動の中で生まれた。それがさらに大学解体論、反大学論など、より深いテーマとして展開してゆくことになる。全共闘運動が、きわめて人間主義的な、思想的な運動であったとされるのは、以上のようなことのためである。
全共闘運動が、個々の大学の改良闘争、あるいは共通の政治目標を越えた、ラジカルで広範な運動となったのは、それが提起した人間の根底をゆさぶる理念の故にであり、全共闘がまったく姿を消したいまも、新左翼や住民運動など民衆のなかにその理念と急進的な運動のスタイルが残り続けているのは、その理念と行動の新鮮さと真実性の故にであろう。