ターザン山本『プロレスvs格闘技 カリスマ大戦争』(KKベストセラーズ2001)を読む。
近年「格闘技」というジャンルが生まれ、プライドというプロレス出身者でも柔道、空手出身者でも参戦できるリングが用意される中で、プロレスが「格闘技」に飲み込まれ、「プロレス」という定義が曖昧になってきた現状をつぶさに追っている。確かに総合格闘技という曖昧なジャンルが確立されつつある中、元祖総合・異種格闘技であるプロレスの醍醐味は薄れつつある。しかし、ターザン氏は「プロレスファンは、プロレスは記録ではなく記憶であることを、よく分かっている。一方、野球ファンはペナントレースが終われば、その試合の記憶は全部、無意味となる。もはや記憶は消すしかないのだ」とプロレスを定義づける。そして「K-1やPRIDEが、あれだけ世の中から注目され持てはやされると、もはや格闘技のダンディズム(質素・質実・禁欲的)はどこにもないだろう。あれは形を変えたプロレス(虚栄)」だとお客絶対主義・観客至上主義に行き着いた格闘技の行く末を心配する。球技なら野球とサッカーのどちらが強いかという憶測はありえないが、リングの上で1対1だと、無理矢理でも異種交流試合が通用してしまう「格闘技」は人気誘導のマスコミの影響を受けやすく、常にそのアイデンティティが問われてくるのだろうか。ちょっとカッコイイまとめ方だが。。。
『プロレスvs格闘技 カリスマ大戦争』
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