三谷幸喜『気まずい二人』(角川文庫 1997)を読む。
口数の少ない対談を戯曲風にまとめたものである。「(笑)」マークを一切使わない試みで、『やっぱり猫が好き』のような気まずい笑いを演出したのだが、どうも狙いは外れたようである。映像で見るとまた違うのであろうが、活字で沈黙や言葉を探す時間を表現することの難しさのみが表れていた。
月別アーカイブ: 2003年1月
『ネットウォーズ』
浜田和幸『ネットウォーズ;世界情報戦争の読み方』(PHP新書 2000)を読む。
少し古い作品であるが、インターネットにまつわる「情報戦争」の実態が少し整理できた。
近年、シティバンクやアメックス、GEなど日本人にとって馴染み深いようで、得体の知れない金融機関の名前を聞く機会が増えてきた。金融再編を論じる際、常にアメリカの情報機関の動きと考えあわせていくことの必要性を感じた。
しかし作者浜田氏は少々勘ぐり深いところがある。作者は1988年のリクルート事件はCIAが裏で演出していたと述べる。リクルート事件とは当時リクルート会長だった江副浩正とNTT会長の真藤恒が組んで先見的なネットビジネスを始めようとした際に発覚した未公開株にまつわるスキャンダルである。しかしこの裏にはこの動きに危機感を抱いたアメリカ諜報機関が、江副氏の行動を洗い出し、日本の闇の組織を巧みに使って、その関係を公に出したというのだ。その中心人物は「あらゆる手段を講じて日本の金融情報産業がこれ以上台頭することを防ぐ必要があった」と話したという。そしてこれ以降日本の情報通信革命のテンポが落ち、アメリカの情報技術産業が花開いたと結論付ける。「権力謀略論」的流れが気になるが、あり得ない話ではないだろう。
『母と子の漢文語感教育法』
安達忠夫『母と子の漢文語感教育法』(創教出版 1989)を読む。
最近重きを置かれることのない「素読」の簡単な入門書である。
中でも作者は幼児期に日本語の根幹となる漢文を漢音で素読することが語学能力を向上させると述べる。確かに作者のいう通り、完全なる理解を求める昨今のゆとり教育の流れには反するが、理解が追い付かないまでも「門前の小僧習わぬ経を読む」といった習慣は勉強に限らず運動でも大切なことである。「習う」と書いたが、作者の説によれば「習」という字の「白」という字形には「重ねる」という意味があり、全体で巣立ちの前のひなが何度も羽を動かして飛ぼうとする動作を示すということだ。私自身もそうであるが、速読やポイント理解に偏り過ぎてしまうのも「教育」という観点からは考えものであろう。
また漢文教育についても、書き下し文と現代語訳をくらべながら文法事項を確認するだけの従来の漢文教育の限界は20年以上前から指摘されている。素読と視聴覚映像をうまく組み合わせて広く中国文化圏の理解というレベルで伝達できるような勉強が大切である。
新しいアパートの部屋の様子
『夜と女と毛沢東』
吉本隆明と辺見庸の対談集『夜と女と毛沢東』(文春文庫 2000:単行本 1997)を読む。
毛沢東や女性論、身体感覚について多岐にわたる対談が収められている。特に印象に残ったのが、辺見氏が毛沢東やレーニンをある種の霊性や俗物性の両方を持った業の深い人物と評し、日本の左翼でいうならば、永田洋子や坂口弘、そしてもう一人該当する作家として中野重治を挙げていた。それに対し吉本氏も左翼の敵だと言われている文学者の中ではピカイチだと賞していた。詩人として、政治家として中野の評価はあまたであるが、「業が深い」という評価は始めて聞いた。考えてみると中野は特に政治的に特化した発言はしていないし、小説家として一言を持った人物ではない。「転向」というレッテルを背負いながら、地味に活動した人物である。そして結局は共産党からも文壇からも正当な評価を受けなかったが、それゆえのしつこさが一つ一つの作品だけでなく、句点から句点までの一つの文にもにじみ出ているあくの強さが光っている。その点を称して「業」と使ったのだとしたら言い得て妙である。
吉本氏の次の発言が心に残った。言い古されたことであるが、マスコミに踊らされがちな私にとって心に留めておきたい言葉であった。現在でもテレビのチャンネルを回すとワイドショー的な分かりやすさのみが目立つ報道が多い。北朝鮮の問題は金正日体制に、イラク問題はフセインとブッシュに、道路公団問題は猪瀬氏や石原行革大臣、小泉総理の人間関係にいつのまにやら置き換えられてしまう。このからくりの危険性を常に意識しながら日々のニュースを見ていかねばならないだろう。
たとえば、薬害エイズの阿部英にしろ厚生省の岡光前事務次官にしろ、問題のすべての責任を彼らに押しつけるようなやり方を行政も検察も世論もしていますけど、これは制度的欠陥を個人の責任に帰するオウム・震災前的な考え方の典型だと思うんです。そうではなくて、個人的な悪事と制度的・国家的な欠陥なり疲弊という問題を二重写しに、これからは考えないといけないと思うんです。