太宰治『斜陽』(角川文庫 1950)を読む。
よく分からないというのが正直な感想だ。おそらく戦前の「文学界」を舞台にした、プロレタリア文学陣営と新感覚派の間で行われた文学論争を揶揄しているのであろう描写も数多く出てくるが、いずれも頽廃的でとりとめない。
主人公かず子がローザ・ルクセンブルクの本を手にとり、「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」と心中激する場面があったかと思うと、レーニンの本を「表紙の色が、いやだったの」と友人に読まずに返却する場面がある。また「革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。(中略)こいしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命なのでございます。(中略)革命は、まだ、ちっとも、何も、行われていないんです。もっと、いくつもの惜しい貴い犠牲が必要なようでございます。いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です」と最後に述べる場面がある。おそらく戦後直後の共産主義運動を批判的に視ているのであろう。
爵位に裏付けられた旧体制と戦後民主主義の挟間に放り込まれた犠牲者の家族の物語と言えばよいのであろうか。言い換えるならば、あまたの社会主義や民主主義、政治党派や宗教からの守備範囲のどこからも外れてしまう存在に光を当てた作品と位置づければよいのだろうか。正月ボケもあってかこれ以上の考察は難しそうだ。
『斜陽』
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