吉本隆明と辺見庸の対談集『夜と女と毛沢東』(文春文庫 2000:単行本 1997)を読む。
毛沢東や女性論、身体感覚について多岐にわたる対談が収められている。特に印象に残ったのが、辺見氏が毛沢東やレーニンをある種の霊性や俗物性の両方を持った業の深い人物と評し、日本の左翼でいうならば、永田洋子や坂口弘、そしてもう一人該当する作家として中野重治を挙げていた。それに対し吉本氏も左翼の敵だと言われている文学者の中ではピカイチだと賞していた。詩人として、政治家として中野の評価はあまたであるが、「業が深い」という評価は始めて聞いた。考えてみると中野は特に政治的に特化した発言はしていないし、小説家として一言を持った人物ではない。「転向」というレッテルを背負いながら、地味に活動した人物である。そして結局は共産党からも文壇からも正当な評価を受けなかったが、それゆえのしつこさが一つ一つの作品だけでなく、句点から句点までの一つの文にもにじみ出ているあくの強さが光っている。その点を称して「業」と使ったのだとしたら言い得て妙である。
吉本氏の次の発言が心に残った。言い古されたことであるが、マスコミに踊らされがちな私にとって心に留めておきたい言葉であった。現在でもテレビのチャンネルを回すとワイドショー的な分かりやすさのみが目立つ報道が多い。北朝鮮の問題は金正日体制に、イラク問題はフセインとブッシュに、道路公団問題は猪瀬氏や石原行革大臣、小泉総理の人間関係にいつのまにやら置き換えられてしまう。このからくりの危険性を常に意識しながら日々のニュースを見ていかねばならないだろう。
たとえば、薬害エイズの阿部英にしろ厚生省の岡光前事務次官にしろ、問題のすべての責任を彼らに押しつけるようなやり方を行政も検察も世論もしていますけど、これは制度的欠陥を個人の責任に帰するオウム・震災前的な考え方の典型だと思うんです。そうではなくて、個人的な悪事と制度的・国家的な欠陥なり疲弊という問題を二重写しに、これからは考えないといけないと思うんです。