月別アーカイブ: 2002年11月

『いじめの光景』

保坂展人『いじめの光景』(集英社文庫 1994)を読む。
十数年前にマスコミを賑わせた東京中野の富士見中学2年生だった鹿川裕史君のいじめ自殺事件のルポや彼が主催していたいじめ電話相談室「トーキング・キッズ」にかかってきたいじめの被害者および加害者の声を採録したものだ。「子どもの権利条約」の日本政府の批准に保坂氏が一役買っていたことを初めて知った。
保坂氏は昨年7月31日の早大地下団体連帯集会でアピールを行ってもらった(詳しくはわせだじゃあなるのぺーじにて)。 写真のイメージよりも大柄で3号館地下をさっそうと歩き回っていた姿が印象的であった。社民党の現状を考えるに、保坂氏の次回の当選はかなり厳しいであろうが、持ち前の行動力を今後も発揮してほしいものである。それにしても私が選挙で投票する党は次から次へと消えていく運命なのか。私がこれまで投票してきた政党のすべてー社会党、憲法・緑・農の連帯、新党・護憲リベラル、平和・市民、新党護憲あかつき、新社会党(まだ潰れていないが)ーに続き、社民党までがピンチである。市民概念が崩れたところで、市民との絆や連携を訴えたところで効果は薄いのであろうが、環境、教育、労働現場での素朴な意見を実体化させていく回路は必要だろう。

先程大学入試のつまらないヨーロッパと日本の自然観比較の評論文の問題を解きながらふと考えたことがある。それはヨーロッパでの「緑の党」のことである。社会民主主義政党とエコロジー運動団体はヨーロッパでは比較的容易に連帯しているが、日本では民主党にしても社民、共産党にしてもうまく連帯しているという話は今ひとつ聞かない。
ヨーロッパでは「独占資本による開発の結果の自然破壊 VS 民主主義の発展による自然保護」という枠組みが見えやすい。しかし日本においては、「自由な民主主義の発展による自然開発 VS 「うさぎ恋し、かの山」といった懐旧趣味的故郷意識による自然保護」という意識が日本人の心理に深くはびこっているのではないか。ゆえに実体はともかく、保守的な思想の中に自然を大切にする意識が芽生え、革新的な思想の中からは形而上的な自然保護意識しか生まれないのだろうか。
ここしばらく疲れているので、これ以上書き進めることができない……。もう寝よう。

『恋』

小池真理子『恋』(早川書房 1995)を読む。
「確かこの描写、数年前に読んだよなあ」とずっと考えながら読み進めていった。学生時代にバイト先の同僚から勧められて小池真理子を数冊読んだことがあるのだ。1970年前後のセクトのアジ姿の描写がうまく特徴を捉えていたからマニア的に読んでいたのだ。内容は1972年の浅間山荘事件と同じ軽井沢を舞台とする恋愛犯罪サスペンスである。明大生である主人公矢野布美子の脳裏に去来する、学生セクトの内ゲバに対する冷めた現実意識と耽美的恋愛に憧れる少女趣味の相克がテンポ良く描かれていた。全共闘運動以降の学生の心に生じた喪失感、失望感の裏返しとしての、虚無的な官能ロマンスがテーマであったと言えるだろう。ちょうど100年程前に田山花袋や島崎藤村といった自然主義文学から谷崎や永井などの耽美派が生まれてきたように。

先日深夜に大宮にあるドンキホーテへ出掛けた。通路のいたるところに商品が溢れていたが、一部の目玉商品以外さして安いというわけではない。必要のないアクセサリーや生活用品になんとか必要性を見出そうとする過程が楽しいのであろう。また入り口の前にはたこ焼きとチョコバナナが売っており、店内はタオル地のスウェットやジャージ姿の若者が目立った。近所で開店反対運動が起きるのも納得できる光景であった。

『学校は変わったか』

保坂展人『学校は変わったか:心の居場所を求めて』(集英社文庫 1994)を読む。
1990年に神戸高塚高校で起きた「校門圧死事件」と1993年のプロ棋士殺人事件Mさん刺殺事件のレポを踏まえて、受験競争の最中の子供の「心の空洞」を追ったものだ。プリント教材中心の「丸暗記・処理能力向上」型の「減点法」学校教育では、ちょっとした壁にも「自己を責める」ようなアイデンティティと、「喪失感」が子どもの心に去来すると指摘する。そして著者は「自己肯定」と「達成感」のある「加点法」の教育を目指すべきだと主張する。そして「学校五日制」の前に「学校半日制」を提案している。
保坂氏の描く教育像は必ずしもはっきりしたものではないが、一つの実践例として埼玉県入間郡にある私立東野高校を紹介している。日本国憲法と教育基本法の「自主・自立」を理念とする学校である。ホームページを覗くと、東野高校の開校に寄せた京大森毅氏の「学校とは、なによりもまず場所である。その世界、その時間が輝くことに、すべてはかけられるはず。遠い未来などではなく、この現在の輝きのために。」という言葉が見つかった。簡単なようで大変難しい教育目標である。