日別アーカイブ: 2002年11月20日

『箱舟の去った後』

五木寛之討論集『箱舟の去った後』(講談社文庫 1974)を十年ぶりくらいに読み返した。
今は亡き稲垣足穂や久野収氏など8人と社会・歴史・文学を自在に横断する討論が展開されている。確か高校時代に読んで、いつかはこのような幅広い討論ができるような評論家になりたいと夢見ていたものだが……。
この中で五木氏の鋭い指摘があったので長い引用になるが紹介したい。

 だから歴史というものをだれが動かしていくか、歴史の関心をどこに当てるかというときに、無名に民衆に当たるときと、そのリーダーに当たるときとあって、この波が交互にあらわれる。戦後民主主義科学の一連の流れの中で、歴史は無名の人間たちが動かしてきたのだ。歴史は人民の歴史である。現代の歴史は水俣の市民たちのように、民衆の怨みの歴史である、そういう歴史がずっといままで支配してきたわけです。そういうものに対する一つのリアクションとしてここに出てくるのが「怨」に対する「誠」、「至誠天に通ず」で国とか民衆を考えていこう、政治を「誠」でやっていこうという考え方が出てくるわけです。
たくさんの人間が歴史をゆり動かしていくとき、その上に立つリーダーが霊媒みたいなもので、ジャンヌ・ダルクはジャンヌ・ダルクでなくてほかの人でもよかった、だれかがジャンヌ・ダルクをつくったのだという観点に対して、いやジャンヌ・ダルクでなきゃだめだった、ナポレオンでなきゃだめだったというように、個人個人のヒーローの役割を最近重視してくるようになったのじゃないか。つまり人民人間主義というか、民衆人間主義というか、トータルとしての人間観に対して、今度は一つ前の近代的自我、といってはおかしいけれども、個人として歴史上の人物の役割を再評価しようという動きがずいぶん強く出てきているような気がするわけです。(「歴史読本」1973年7月号)

現在の新しい歴史教科書グループの誕生を予見したような文章である。歴史観というものは、その客体である過去の歴史を捉えるだけでなく、その主体である現在の社会・政治状況の動向を示唆する。歴史にヒーローを見出そうとする歴史観は、ヒーローを待望する現在の世相の表れである。この文章が私が生まれたまさに73年の7月に書かれたという意味を考える必要がありそうだ。