本日は埼玉県民の日で仕事が休みだったので、卒業以来久しぶりに卒論指導でお世話になった杉野要吉教授の研究室へ出掛けた。
新学生会館建設に伴うキャンパス内からの地下部室撤去などによって大学の様相は大きく変わったが、研究室は変わらなかった。今年で退官とのことで、卒業時のバイク事故の関係で研究室に置きっぱなしになっていた卒業論文を返却してもらった。「1930年代における中野重治の主体性について」とタイトルだけは重めかしいが、実体は引用だらけの継ぎ接ぎ論文である。それでも今読み返してみても当時の悩みと、そして希望が走馬灯のごとくかけめぐる。最近、忙しすぎて自分を忘れている。特に5月以降状態が悪い。そのような中で卒業論文を読み返すということは、自分の原点を再確認する意味でも大切であろう。
それにしても大学のキャンパス内の活気のなさには愕然とした。帰りに神保町に寄った。三省堂で『情況』(情況出版2002年11月号)を購入した。帰りのハンバーグ屋で早速、早大非常勤講糸圭秀実氏と教育学部教授高橋順一氏の対談『大学に知の可能性はあるのか』を読んだ。かなりきつい表現を含んでいるが、かいつまむと次のやりとりに集約されるであろう。
糸圭(すが)秀実氏は「68年以降の大学なんて死につつあるわけですから、いかに延命するかということでしかないわけだが、それを可能にするのは基本的には学生運動しかないと僕は思ってるんですよ。簡単に言うと、教員なり経営側なりが何をやるべきかといったら、学生運動の育成なんだ。学生運動を育成することが、実が大学が役になっていることの証拠なんだよね。学生運動がないっていうことは、大学の矛盾を隠蔽しているということであり、4年ないし6年なりで学生を無責任に放り出すだけであって、社会に対して何の役にも立ってないということなんだ。矛盾があるということを教えることが世のため人のため社会のために大学があるということなのであって、まともな大学経営者は学生運動の育成をちゃんと考えるべきなんです。」と述べ、全共闘運動のあった日東駒専の偏差値が上がり、運動のなかった国士舘や拓大が落とした例を付け加えている。
それに対し、高橋氏は「大学に帰属している学生たちに一体何が必要なのか、大学が何を提供すべきなのかという根幹にかかわると思うんだけども、例えば早稲田にしても、いま大学がものすごく清潔じゃないですか。清潔といえば聞こえがいいけど、ノイズを許さないということですね。ノイジーなものを容赦なく排除していく。最近の早稲田の状況を見ていても、ノイジーなものを排除することはどう見ても大学の自殺行為としか思えない。ノイジーなものがなくなったとき大学は要らなくなる。」と主張する。
そして最後は語学教育やリカレント教育などで大学を活用していく点で意見を同じくする。全共闘的な運動の提起を促しつつも、「大学解体」的なラジカルなものではなく、あくまで「ノイズ」レベルの学生運動のあり方を述べるあたりは首を傾げざるを得ないが、今日のキャンパス風景を思い出すに、議論自体は納得できるものであろう。