先日、アイスコーヒー用のミルクを買いにいったところ、気付かずに「キャラメル&シナモン風味」のミルクを選んでしまった。
「いつものコーヒーに入れるだけで香り豊かなフレーバーコーヒーに仕上がります」というコピーが書かれている。嫌な予感がしたが、案の定飲めた代物ではない。コーヒーにキャラメル味がミックスされ、何とも言えないような香りが漂っているのだ。不買運動すらおきそうな不味さである。食事を粗末にすることは天誅に値するが、残りのミルクは全部捨てしまった。
月別アーカイブ: 2002年4月
『ラブ&ポップ』
村上龍『ラブ&ポップ』(幻冬舎)を読んだ。
数年前に庵野秀明監督の映画を見たが原作を読むのは初めてだ。援助交際をする女子高生が、実は他者との出会いの「可能性」に対して飢えているということをテーマにしたと作者である村上龍は述べている。作者と同じ視点に立っているスタンガンを持ったぬいぐるみ好きの登場人物をして、作者は女子高生の裕美に次の言葉を言わしめている。
僕ね、悪いけど田舎に行くとぞっとするのね、嫌で嫌でぞっとする、肥料の匂いとかそういうんじゃなくて、ほら、他人なんかいないでしょ? 全部知人でしょ? 他人に出会えないっていうのは死人と同じだと、ぼく思うけどね、もちろん知人は大事よ、子供は親が必要だし、病気の時や災難の時とかもね、でも、知人だけじゃ生きられない人間もいるってこと、特に、若い時はそう、高校生なんか親と教師だけで済ませてる子はもうそれだけで腐ってるもんね、他人という新鮮な風を受けないと、人間だって腐るんだから
援助交際で知り合った特異なフェティシズムを持った相手すら、自分のそうした出会いのバラエティーに含めてしまう女子高生の姿を鮮明に描いた作品であった。そうした女子高生の姿を描くことは、逆説的にテレクラや出会い系サイトの利用以外にのめりこむものがないという社会的な問題を提起している。しかしそうした社会的な制約の中で現実肯定的な生き方を懸命に模索していく女子高生を見事に浮かび上がらせているが、その先にどのような生き方が望まれるのか、作者村上龍はこの作品では述べていない。
見ず知らずの男とエッチをするという実感が裕美にはない。学校の、礼拝の時とかに演説する倫理社会の先生は、貞操観念というものは神によって確立されています、と今年になって二回言った。おやじの読む週刊誌には、ヌードやソープランドのことはあっても、女子高生が見ず知らずの男とエッチするのがなぜいけないことなのか、一行も書いていない。テレビやラジオでもそんなことを言う人は一人もいない。ここはバチカンではなくて日本なので、神様が貞操観念を確立した、なんて本気で言えば小学生だって笑う。なぜいけないのかわからなくても、いけないことはきっといけないのだろうと裕美は思う。一人になってから、裕美は、絶対にあの指輪を援助交際をして手に入れる、ということについて、それが本当にいけないことだという根拠みたいな何かがあるだろうか、探した。あるいは今の自分にとってもっと大切な何か、援助交際をして指輪を買ったりしなくても済むようなもっともっとすばらしい何かがあるだろうか、と自分の中を探してみた。小さい頃から両親や先生が自分に言ってくれたこと、本や雑誌に書いてあること、ラジオで聞いたこと、歌の歌詞、テレビや映画やビデオで見たこと、そういう中から探した。何もなかった。
図書委員会通信
現在図書委員会の顧問をやっており、先日委員会の通信を発行した。その一部を抜粋してみよう。
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。また2・3年生もこれからが高校生活の本番となります。
さて、高校時代の3年間は思いっきり読書ができる時間でもあります。是非良い本に巡りあって、高校生活に豊かな彩りを加えて欲しいと願います。ある一人の作家の本をとことん読み、その作家のことを好きになっていくということは、人生のこの上ない幸せです。人は常に孤独と向き合っています。特に若い人はもしかしたら自分は誰からも理解してもらえないかもしれないという孤独にかられます。だから、人は「寂しい自分」から逃れるために友人恋人を求めます。そしていつのまにか向き合うべき自分を忘れていきます……。文学というものは難易の差こそあれ、一人の作家の孤独の表現と言い換えることができます。読書というのは単に国語の点数が上がるだけのものではなく、作品の登場人物の心を知ることから、その作家の他人や社会からの孤独が理解でき、そしてそれを読んでいるあなた自身と出会うことができるものなのです。
若い君たちにとって一冊の本との出会いが人生の針路を決めることもありましょう。残念なことに、人間はいつまでも多感ではいられません。歳をとるごとに感動することが難しくなってきます。中年になっても素晴らしい本や映画を楽しむことはできますが、それがこれから将来を決める決定打にはなりえません。高校時代にこの本に出会っていたらと後悔することの繰り返しばかりです。人との出会いも本との出会いも一期一会です。繰り返しますが、是非素晴らしい本との出会いを期待しています。現在オススメの本の一覧を図書室の壁に掲示してあります。どの本も人生を変える、もしくは狂わせる力のある本ばかりです。
真の学校
今「20世紀の名言」というメールマガジンをとっている。明日に始業式を控え、ここしばらく、魅力ある授業をどう作ればよいのかと考えていた。○×式の受験テクニックではない、「答えのない授業」について考えてみたが、どうもこれといった結論が出ない。そのような悶々とした中で、今日配信されたメールの名言は印象的だった。
教師の側から知識を授けるよりもまず知識を
もとめる動機を子どもたちがもつような学校が、真の学校である。
デューイ (アメリカの哲学者)
言われてみれば当たり前のことであるが、現場で具体的にどう実践していくかというのは難しい。短期的には子供たちの興味を引き伸ばしていく授業は出来ても、それを継続していくことは教員の側の負担も大きい。国語教育においても、本に書かれている事柄を解説することは簡単だが、では子供たちに読書の面白さを伝えるにはどうすればよいのだろうか。はたと考え込んでしまう。先日の公明党による「こども読書推進法案」のように法案を作るのは簡単だが、インターネットや携帯電話がすっかり普及した現在、多少の忍耐力を要する読書に目を向けさせることは難しい。むしろ教科書会社からもらう「指導書」に沿って一方的に授業展開する方がよっぽど手が抜けてよい。そもそもそうした授業に馴らされた、自分の意のままに動き、飲み込みが早く、かつ反論をしない生徒が教員にとって一番楽なのだ。意図しないような反応、意に沿わない答えを持ってくる生徒は教員にとってうとましい存在になる。読書一つを巡っても、まさに教員の側の度量が問われるであろう。
『水道橋博士の異常な愛情』
水道橋博士『水道橋博士の異常な愛情』(青心社)を気晴らしに読む。
作者の水道橋博士とはたけし軍団の浅草キッドの一人である。
雑誌「熱烈投稿」(コアマガジン社刊)に掲載されていた「ちんちん日記」というコラムをまとめたものであり、表題通り彼の風俗体験が面白おかしく書かれている.
その中で浅草キッドとアダルトビデオ女優の南智子との対談が面白かった。南智子さんはアダルトビデオの代々木忠監督作品に多数出演し、女性が男性の上になり、男性をいかせる『性感Xテクニック』という男女の倒錯した絡みを得意としている。
彼女のセックス観を通して、「抱く性=男、抱かれる性=女」という枠組みを一度壊して見ることから、性に対して必要以上に自己規制にとらわれている女性の姿や、女性を「いかせる」義務感にかられている男性の姿がかいま見えてくる。その南智子の次の発言が印象的だった。
昔、ゲイの友達に「どうしてキミは異性が好きか考えたことがある?」って聞かれてすごいカルチャーショックを受けたことがある。だってそういうもんだから、としか答えられなくて、答えられない自分がバカだな、と思ったの。で「僕は、なぜ同性が好きかって事を考えない日はなかった」って。でも、同性愛の人は果たして自分が、どういうセクシュアルアイデンティティによって異性が好きなのか、って考えたことがあるのか、それを語れる人がいるのか、って言われたときに全然「エッ、だってそういうもんだから」としか言えなかったの。
同性愛の問題について、私は生物学的もしくは法的社会生活の側面からしか考えてなかったので、私自身上記の文章を読んではっとした。テレビのバラエティー番組ではゲイを面白おかしく奇異な存在として取り上げている。しかし実は同性愛者の事例を考えることで、改めて異性愛の実相について考察することができるのだ。