月別アーカイブ: 2001年4月

『スティーブ・ジョブズの再臨』

現在、東京新聞の懸賞で当たったAlan Deutschman著『スティーブ・ジョブズの再臨:世界を求めた男の失脚、挫折、そして復活』(毎日コミュニケーションズ 2001)を読んでいる。
現アップルコンピュータ社長のスティーブ・ジョブズがジョンスカリーによってアップル社を解雇されてから、ネクスト社の創立、そしてまた再びアップル社に戻ってくるまでの、あまり公にされていない時期の話である。なかなか興味深いエピソードもあるが、翻訳がよろしくない。マック関連のコンピュータープログラマーが訳しているので大変読みにくい。大体英語のレトリックは直訳で日本語にするものではない。例えば以下のような文章がある。

だが、最終的に彼らは、官能的なスタンフォードの丘とつながりながらもひっそりしたディアクリークロードにあるコンクリートとガラス製の小さな建物を借りることにした。彼女は、目の前に広がる荒廃したスペイン修道院様式の泥棒貴族的な邸宅を見つめた。それは、カリフォルニアの建築にお決まりの様式であり、シリコンバレーの恐ろしく狭苦しい郊外を埋め尽くした数多くの無数の郊外住宅と同じく、お約束とも言えるしっくい壁と傾斜した赤い日干しレンガの屋根を持っている。異なるのは、この崩れかかった奇怪な建物は、本当にスペイン風の修道院並に大きかったということだ。

まったく引用するのもウンザリな直訳調文章が続くのだ。こうした前時代的な翻訳文章が今また出始めているというはパソコンの翻訳ソフトの影響であろう。誰しもがボタン一つで翻訳できるようになったため、翻訳の門外漢が出来の悪い翻訳本を乱売しているのだ。しかし高校までの国語教育で外国文学に触れる機会はほとんどない。現代文も漱石、鴎外、大宰、芥川が中心で、翻訳された文章を読むことはあまりない。昔のロシア文学などのあまりにかたっ苦しい翻訳にも閉口するが、最近の教科書通りな翻訳ソフトの文章も読んでいてつらいものがある。

成長と教育

技術の話で思い出したが、先日永六輔のラジオ番組で埼玉の行田にできるものつくり大学の話が出てきた。ものつくり大学はKSDの問題とセットで報じられたのでマイナスイメージが付きまとうが、建学の理念である、手を使って何かを作り出すことの大切さを伝えたいというメッセージは耳に残った。最近の高校生の憧れる職業の上位に大工や花屋が入っているが、ここ三十年程軽視されてきた手を使って材料を組み立てて一からものをつくるという極めて現実的な作業が、彼らには新鮮に映るのだろう。手を使って何かをつくる作業に没頭するという経験が、子供が自然と離れ、そしてテレビゲームが家庭に入ってきて希薄なものになっている。

昨年の全教の全国大会の議論の中で、教育の根幹は、「子供に自己肯定観と達成感を与えることだ」とあったが、まさに手を使っての作業にこそ、今後の教育の理念が隠されているのではないだろうか。竹馬や竹とんぼや花飾りを作ったり、プラモデルやジオラマを集中して作り、それを周りが理解するという当たり前のことが忘れ去られて久しい。翻って考えてみて現在の教育でそのような「つくる」という感覚をどれだけ重視しているだろうか。「新しい歴史」までつくる必要はないが、各教科、教科外教育の中でで頭よりも手を使うことの大切さを教えていくことが求められるだろう。

『TRONで変わるコンピューター』

ちょっと古い本であるが、坂村健著『TRONで変わるコンピューター』(日本実業社 1987)を読んだ。
最近とんと話題に出なくなった「トロン・プロジェクト」の宣伝の話であるが、著者の坂村氏はなかなか先進的なコンピューターの体系を考えた人だと思った。15年以上も前に現在の情報ネットワークを考慮し、今店頭にならんでいるパソコンに非常に近いものを創案していたことに驚いた。特に彼の提唱していた“μBTRON”というノートパソコンは、日本語入力を勘案したキーボードとセットなっており、現在の私が見ても素直に欲しいと思ってしまうサブノートパソコンである。

『IT革命原論』

自省心のない文ですが。

武田徹『IT革命原論』(共同通信社 2000)を読んだ。
著者武田氏は、「インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピューターに保存することと、ネット上に公開することの差は、二、三のキー操作の差に過ぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは〈発想〉と〈発表〉との間の落差がほとんど存在しない。(その結果)〈自我境界〉が曖昧化、拡大化し、自己と世界がいわば〈短絡〉してしまう」(朝日新聞1999年12月13日夕刊)という黒崎政男の文章と、「ネットワークのなかでは性転換も若返りも思いのままだ。匿名空間をゲーム感覚で浮遊しながら、われわれは自分の限りある肉体に固着した現実から解き放たれる。情報処理機械によって卑小な自分を否定しさるとは、まさに何と狡知にとんだ快楽だろうか……。だが、これは断じて真のコミュニケーションではない。コミュニケーションとは本来、有限な肉体を前提とした行為である。たとえば直接民主制は、皆の前で危険を承知で意見を公にするという、一種の肉体的賭けにもとづく。顔も見せずに通信回線経由で電子投票のボタンを押すこととは全く違うのだ」(『パソコンへの愛の行方』)と西垣通の文章を引用し、次のように述べている。

 一切の反省を差し挟まずに書かれるメールの文章は、自分とは考えも価値観も異なる他者に向けてメッセージを伝える場合に絶対必要な、相手と自分の差異を意識しつつ、自分の考えの輪郭を明瞭にしてゆくという作文の過程がすっぽり抜け落ちがちだ。そして自意識が、ただ、だらしなく溢れ出ているような文章が生み出される。特に匿名で書く場合、一切のフィードバックをあらかじめ断っている安心感も手伝って、自意識の止めどない漏出に歯止めが効かなくなる。
そんなメールの表現を「本音が語れる」「気を遣うことなく素直になれる」と形容すること自体、深刻な歪みを感じざるを得ない。自・他の毅然とした区別が失われ、その喪失の危険を感じ取る感覚も鈍磨している。「身体存在を欠いた二次元的幻想の交流」をそれと気づかない鈍感さ、偽りのコミュニケーションを偽りと思わぬどころか「素直になれるようになった」と賞賛してしまう感覚。それがデジタルメディアが導いた心象風景だ。

まさに私のこの掲示板に書き連ねた文章こそが上記の自制心を欠いた文章であることは間違いないし、多くのネット恋愛や出会い系サイト、また差別落書き等でネット愛好者の妄想の肥大化は指摘されている。しかしこうした現実と虚構のシームレス化は権力や法制によって止めるべきものではないし、止まるものでもない。キーボードに向かいながら打つ言葉の有り様についてもう少し勉強する必要があるということしか言えない。