『IT革命原論』

自省心のない文ですが。

武田徹『IT革命原論』(共同通信社 2000)を読んだ。
著者武田氏は、「インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピューターに保存することと、ネット上に公開することの差は、二、三のキー操作の差に過ぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは〈発想〉と〈発表〉との間の落差がほとんど存在しない。(その結果)〈自我境界〉が曖昧化、拡大化し、自己と世界がいわば〈短絡〉してしまう」(朝日新聞1999年12月13日夕刊)という黒崎政男の文章と、「ネットワークのなかでは性転換も若返りも思いのままだ。匿名空間をゲーム感覚で浮遊しながら、われわれは自分の限りある肉体に固着した現実から解き放たれる。情報処理機械によって卑小な自分を否定しさるとは、まさに何と狡知にとんだ快楽だろうか……。だが、これは断じて真のコミュニケーションではない。コミュニケーションとは本来、有限な肉体を前提とした行為である。たとえば直接民主制は、皆の前で危険を承知で意見を公にするという、一種の肉体的賭けにもとづく。顔も見せずに通信回線経由で電子投票のボタンを押すこととは全く違うのだ」(『パソコンへの愛の行方』)と西垣通の文章を引用し、次のように述べている。

 一切の反省を差し挟まずに書かれるメールの文章は、自分とは考えも価値観も異なる他者に向けてメッセージを伝える場合に絶対必要な、相手と自分の差異を意識しつつ、自分の考えの輪郭を明瞭にしてゆくという作文の過程がすっぽり抜け落ちがちだ。そして自意識が、ただ、だらしなく溢れ出ているような文章が生み出される。特に匿名で書く場合、一切のフィードバックをあらかじめ断っている安心感も手伝って、自意識の止めどない漏出に歯止めが効かなくなる。
そんなメールの表現を「本音が語れる」「気を遣うことなく素直になれる」と形容すること自体、深刻な歪みを感じざるを得ない。自・他の毅然とした区別が失われ、その喪失の危険を感じ取る感覚も鈍磨している。「身体存在を欠いた二次元的幻想の交流」をそれと気づかない鈍感さ、偽りのコミュニケーションを偽りと思わぬどころか「素直になれるようになった」と賞賛してしまう感覚。それがデジタルメディアが導いた心象風景だ。

まさに私のこの掲示板に書き連ねた文章こそが上記の自制心を欠いた文章であることは間違いないし、多くのネット恋愛や出会い系サイト、また差別落書き等でネット愛好者の妄想の肥大化は指摘されている。しかしこうした現実と虚構のシームレス化は権力や法制によって止めるべきものではないし、止まるものでもない。キーボードに向かいながら打つ言葉の有り様についてもう少し勉強する必要があるということしか言えない。

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