真鍋真・小林快次編著『日本恐竜探検隊』(岩波ジュニア新書,2004)をパラパラと読む。
タイトルにある通り、日本国内で発見された恐竜の化石について、地図入りで詳しく解説されている。特に1億5000万年前以降に堆積した、富山・石川・福井・岐阜の県境にまたがる手取層群については丁寧に説明されていた。
私はこの手の生物分化的な話が苦手なのだが、恐竜の系統や生息域、進化の話が続き、正直つまらなかった。生物学の学問としては正しいのだろうが、恐竜の持つ魅力が台無しになってしまわないか?
真鍋真・小林快次編著『日本恐竜探検隊』(岩波ジュニア新書,2004)をパラパラと読む。
タイトルにある通り、日本国内で発見された恐竜の化石について、地図入りで詳しく解説されている。特に1億5000万年前以降に堆積した、富山・石川・福井・岐阜の県境にまたがる手取層群については丁寧に説明されていた。
私はこの手の生物分化的な話が苦手なのだが、恐竜の系統や生息域、進化の話が続き、正直つまらなかった。生物学の学問としては正しいのだろうが、恐竜の持つ魅力が台無しになってしまわないか?
正木健雄『新・いきいき体調トレーニング』(岩波ジュニア新書,2003)をパラパラと読む。
著者は東京大学教育学部体育学科を卒業され、同大学院博士課程(体育学専攻)修了し、日本体育大学の教授を長らく務めた方で、本書も保健体育の授業の副読本のような内容となっている。若者の体力や生活リズム、体を支えるトレーニング方法、日常の姿勢、疲れのとりかた、睡眠前の理想的な過ごし方などが、根拠を示して丁寧に説明されている。
歩くというのは、単に体力向上だけでなく、大脳の活動を活発化させる効能がある。ギリシアの哲学者アリストテレスはぶらぶら歩きながら思索し、哲学を論じあったことから逍遥学派といわれている。実際に歩くスピードを変えながら計算問題を解く実験をしたところ、アリストテレスと同じように、ゆっくりと歩く方が計算のスピードが上がったそうだ。
やはり散歩やポタリングというのは、身体だけでなく、頭の回転にも良い運動なのだ。
村上春樹『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』(TBSブリタニカ,1988)をパラパラと読む。
正直読みたいところのない作品であった。まずもって私は、村上春樹が私淑するフィッツジェラルドが好きではない。『グレート・ギャツビー』は読んだことないが、日常生活の違和感を描いた短編集があまりにつまらなかったので、興味が湧かなかった。そもそもフィッツジェラルドの作品(『グレート…』は読んだことないが)を本当に評価している人はいるのか?
佐々木瑞枝『外国語としての日本語:その教え方・学び方』(講談社現代新書,1994)をパラパラと読む。
著者はカリフォルニアにある州立大学を卒業され、日本語学・日本語教育を専攻され、実際に横浜国立大学で留学生に日本語を教えている教授である。そのため、日本語の文法の説明に終始するだけでなく、留学生が勘違いしやすい言い回しや日本語の発音で躓きやすい語も丁寧に説明されている。外国人に日本語を教える際の参考書として最適である。
日本人は普段日本語を使う際に、自動詞と他動詞の違いをあまり意識しないが、ニュアンスは大きく変わってしまう。たとえば、バイト先でコップを洗っていて、何かの弾みで割れたとした時に、「あっ、すみません。コップを割ってしまいました」と「あっ、すみません。コップが割れてしまいました」では、その後の対応が大きく変わってしまう。
また、「〜ている」という文型も、改めてその違いの大きさに驚く。本書では次のような事例が紹介されている。1は英語と同じく「現在進行形」なので、日本人でも説明しやすいが、2以降を留学生に説明するのは難しい。
〔問題〕「次の『しています」はそれぞれどんな風に意味の違いがあるでしょう」
- 今、彼に手紙を書いています。
- ドアが開いていますよ。閉めていただけませんか。
- この道は、くねくねと曲がっています。
- ジムは去年、富士山に登っています。
- 家には毎日大工さんが来ています。
原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社,2007)を読む。
非常に面食らう内容であった。自費出版本かと思うほど、自身の小学校時代の細かいエピソードが多く、途中で嫌気が差したが、武蔵野線の開通や西武線沿線と東急線沿線の街作りの違いなどの話が興味深く最後まで一気読みした。
1974年という時代は過激な大学闘争こそ終息したが、全共闘世代が大学卒業後に教員になった頃で、革新勢力が国政や地方政治でも台頭する時期とも重なる。著者が通っていた東京都東久留米市第七小学校では、「民主主義」の名の下に、選挙で選ばれた児童委員会が活発に機能し、係活動や班競争が展開されていた。著者が当時住んでいた滝山団地は、サラリーマンの父と専業主婦の母と子供2人という典型的な核家族が居住するところであった。そうした好条件も重なったこともあり、著者自身もそれ以降の人生で経験できないほどの、民主的な議論があったと振り返る。
著者は最後に次のように述べる。
2006年12月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQの干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。