読書」カテゴリーアーカイブ

『自分を変える読書術』

堀紘一『自分を変える読書術:学歴は学〈習〉歴で超えられる』(SB新書 2015)を読む。
経営コンサルタントで株式会社ドリームインキュベータ代表取締役会長を務める著者が、自身の華やかな経歴を披露しつつ、自分自身の読書論を語る。「細切れの時間を繋いで読書時間を作り出せ」だの「欧米に比べて日本人には教養がないので古典に親しめ」など、紋切り型の読書術であまり参考になるところはなかったが、表現力や感受性を高めるために小説を読めという言葉は印象に残った。

 読書ノートはぜひ書いたほうがいいと思う。(中略)読書ノートにとくに決まりはない。日付、読んだ本のタイトルと著者名を書いたら、その本を読んで自分が感じたこと、心に残った言葉や表現を好きなように書いていけばいい。2行で終わる本があってもいいし、10行くらい熱心に書く本があってもいいと思う。いずれにしても頭に留めるだけではなく、自分の言葉に置き換えてアウトプットすることが読書の深化につながる。それは時間をかけて教養となり、人間力を高める最大のトレーニングになるだろう。

『親鸞』

『親鸞』
千葉乗隆『親鸞 人と歴史・日本 10』(清水書院 1973)を読む。
親鸞は9歳から29歳までの20年間、比叡山延暦寺で修行している。当時の比叡山は日本仏教の最高学府であり、法然や栄西、道元、日蓮もみな叡山で研修している。平安初期、最澄は国家権力と結んで害悪を生んだ奈良仏教(南都六宗)を否定し、遁世して山に入り、仏教的実践によって世の一隅を照らすことを理想とした。しかし最澄の死後、比叡山は次第に社会的政治的権力と結びつき、和合を旨とすべき僧集団が闘争を好み、民族宗教と妥協して堕落した。比叡山に道を求めたものは、かえって山を下り「市井の聖」となる皮肉な現象すらしめすようになった。
そこで、親鸞は当時69歳の法然の下に弟子入りすることになる。法然は「選択本願念仏集」を著したばかりであり、一般民衆にも彼のとく念仏は広く浸透し、その教勢は最高潮に達した時期であった。親鸞は法然の教えに忠実で重要な立場を預かるまでになった。しかし、旧仏教側の弾圧を受け、法然とともに流罪となり、突然越後へ旅立つこととなる。著者の千葉氏は妻帯が原因ではないかと述べる。越後で6人の子どもを設け、その後関東各地を回ったのち、京都で『教行心証』を著すこととなる。

この『教行心証』は宗教の教えが書かれているにも関わらず、親鸞は当初から門弟に書き写すことを許可している。法然の『選択集』が秘書としてその公開を拒否しているにも関わらず、親鸞は大変オープンな形で専修念仏を広めようと考えていた。また、親鸞は仏像や堂塔を否定し、既存の村堂や人家をすこし改造した道場で念仏の集会を開いた。葬祭も否定し、亡き父母の追善供養のために念仏を唱えたことは一度もない。
しかし、親鸞の死後、教団が発展していくにつれ、親鸞の教えよりも開祖親鸞の神格化が優先されていく。権力否定の同胞思想を核としていたのだが、教団護持のために権力者と手を握ることも増えていった。さらに、葬式・法会を通じて形式的に寺と檀家を結合する江戸初期の寺請制度によって、浄土真宗の根底が否定されることになった。
檀家制は宗門改に端を発する。宗門改ではキリシタンと日蓮宗不受不施派を全国的に禁止するものであったが、島津藩ではこれに真宗が加えられることになった。
浄土教は一部の門徒だけでなく民衆にも仏教の門戸を開いたが、浄土真宗はさらにフラットな関係の構築を目指した。Web2.0という言葉は十数年前に流行ったが、浄土真宗は「民衆仏教2.0」と捉えた方が分かりやすいだろう。

『世界をひとりで歩いてみた』

眞鍋かをり『世界をひとりで歩いてみた:女30にして旅に目覚める』(祥伝社 2013)を読む。
タレントの真鍋かをりさんがひとりで訪れたパリ、ベトナム、ギリシャ、トルコ、ロサンゼルスでの旅日記である。iPhoneのグーグルマップを片手に見知らぬ町をスタスタと歩いたり、海外に居ながらツイッターでフォロワーのファンからアドバイスを貰ったりと、「元祖ブログの女王」の異名に相応しいIT活用能力である。
また、トルコの地下宮殿の風景をドラクエや「ゼルダの伝説」のダンジョンになぞらえたりするところも面白かった。最近はテレビ番組で見かける機会は少ないが、ここ1番の勝負笑顔は可愛らしい。

『駿台教育フォーラム 百周年記念号』

昨日、駿台で配布されていた「教育フォーラム 31号」(駿河台学園 2017)を手に取ってみた。1918年(大正7年)に「東京高等受験講習会」と産声を上げて以来、神田の地で、大学合格に必要な知識や技術だけでなく、大学入学後に必要な教養にまで踏み込んだ授業を目指す駿台予備校の100周年記念特集である。論文科の山本義隆氏の寄稿もあり、思い出話から高大接続、応用的な授業内容もあり、多彩な内容となっている。
そういえば、私自身が駿台予備校生時代にも、今は無き1号館校舎で500円で頒布されていたのものを購入した記憶がある。詳細は覚えていないが、ホイジンガの「遊び」についての評論に触れ、知的好奇心を大いにくすぐられたものだ。
冒頭特集の座談会の中で、論文科講師の最首悟氏は次のように語る。

 高卒生と現役生を教える場合の違いもありますね。高卒生は、階段を踏み外した感覚を抱えたまま教室にやってきます。職業欄に「無職」と書かなければならない緊張感があると思います。
無所属な個人として座っている一人ひとりの生徒に対峙しているというのが、予備校の講師が感じている緊張感の一部なのかもしれません。私自身の浪人時代を思い出しても、希薄な所属感しかもてないからこそ、個人として世界に触れているといった感覚がとても強かった。輪郭がもてくなくて凍えていた。(後略)

また、現代文科講師の霜栄氏は次のように語る。

 予備校という場は生徒にとって通過点でありながら、特異点でもあるでしょう。もちろん今この座談会だって、すべての場は通過点で特異点に違いはありませんが、彼らや彼女らは今まで一年ごとに刻んできた「学年」という社会的な枠組みを失い、希薄な帰属意識しかもたず、そのため素の個人それぞれの感覚で世界と触れ合うこともできます。今まで考えてこなかった事を考えるという意味で特異点にいるでしょう。それはけっしてデータ化できない個人的な体験だと思います。自分自身が「分からない」存在として浮かび上がってくることも多いのではないでしょうか。(中略)「分からない」と思えるからこそ「分かりたい」という意欲が湧きます。分かりきった人生など詰まらないでしょう。科学が自然への畏怖を失って必ずしも「知の生産」ではなくなり、「分かりやすい」貧しい言葉だけが声高に叫ばれたり、ビッグデータやIoTによって環境が決定づけられたり、決められた枠組みと価値観の中で人工知能が効率化だけを推し進めていくかもしれない時代に、自分の「分からなさ」を見つめて「生きる」意欲を燃やすことは、とても大変なことのように思います。

『本居宣長」

羽賀登『本居宣長:人と歴史・日本 22』(清水書院 1972)を読む。
江戸中期の国学者本居宣長について、著作の言葉の端々を拾い集め、人となりを丁寧に説明している。本居宣長というと、古事記や源氏物語などの生粋の日本の文化を研究している文学者というイメージが強かった。しかし、実際は極めて「原理主義」的な人物で、中国伝来の仏教や儒教を徹底して排撃し、天照大神由来の日本神道の示す情の世界に帰るべきだとの主張を、生涯に亘って繰り返している。

『万葉考』や『国意考』を著した賀茂真淵に師事し、直接に著作についての指導を受けている。一方、時代は少しずれるが、柳澤吉保の儒臣となり、孔子や孟子などの古典研究に勤しんだ荻生徂徠への舌鋒は鋭い。天下の制度を漢風に変質させたと、大化の改新にも懐疑的な見解を示している。また、貨幣経済は「世上困窮の基」であるとし、農本主義的な理想主義者でもあったようだ。

また、ややこしいことに、徳川幕府を支える朱子学は批判するが、朝廷が正式に征夷大将軍の任を与えた徳川幕府には忠誠を誓うべきだとも述べる。

宗教でも政治でも学問でも、取り戻せない過去を理想化し、現実の諸相を頭ごなしに否定する「原理主義」的な態度には与したくないと思う。