読書」カテゴリーアーカイブ

『飛行のはなし』

加藤寛一郎『飛行のはなし:操縦に極意はあるか』(技法堂出版社 1986)をパラパラと読む。
東京大学で工学部航空学科の教授を務める著者が、飛行機が飛ぶ原理に始まり、引き起こしや宙返りなどの力学的解説、零戦の左捻り込みやブルーインパルスの変形インメルマンなど、かなりマニアックな内容について分かりやすく語る。あとがきの中で著者自身、微分方程式が登場する横書きではなく、言葉で説明する縦書きで書くことの難しさを吐露している。

『百姓をやりたい』

安達生恒『百姓をやりたい:新規就農ガイド』(三一新書 1994)を読む。
30年前の本で、農協(JA)や既存の農業体制から離れた、新規の就農者や新たな肥料の仕入れや販売ルートの開拓の道を進む若者の姿を追う。時代なのか、70年安保闘争で大学を辞め、島根県の山奥にある弥栄村で農業を始めた若者が農村の中核を担っている様子も報じられている。(三一書房ゆえの中核派?)

『全共闘』

茜三郎・柴田弘美『全共闘』(河出書房新社 2003)を読む。
1960年代後半に高揚した学生運動の写真と、当時学生だった著者の座談会の文章が掲載されている。写真の方は、当時学生だった著者自身が撮影したもので、デモに向かう途中の学生の笑顔や、いきなりヘルメットをかぶって緊張している表情をよく捉えている。文章の方は、全共闘を全肯定するわけでも全否定するわけでもなく、現在から振り返ってどんな意味と現在につながる意義があったのか、真摯に当時と向き合っている。印象に残った一節を記しておきたい。

全共闘が生み出した自己変革・自己否定という発想は、僕はとても大切なものだと今でも思う。自分自身を問う。自分に引きつけて考える。そういうのは、戦後の空気の中で少しずつ育っていった大きな財産だと思う。しかし、僕たちはそれを、十分に深化させて、方法的思想に仕上げることができなかったんだ。

(中略

無党派全共闘は、古典的な党派政治に背を向けたけれど、本当に克服するところまで成長できなかった。単に政治性を嫌悪するところで終わってしまっていた。しまいには揺り戻しがきて、無党派グループが党派のようになっていく場面もあった。何かしっくりした強いものが欲しくなったんだろうけど、むしろ恐ろしく古典的な色調を帯びたものになってしまった。せっかくの全共闘の発想が活かされなかった。「政治とは何か」って、本質的な問いを持続させていくことが必要なんだ。

古くてもうだめだと判っているのに、あいまいに情緒的にこだわるのはやめなくちゃいけない。ソ連型の、国家官僚主導の集権的な計画経済と一党独裁型の体制を社会主義というなら、それはもう終わってしまったんだ。あれは社会主義なんてものじゃない、ただ、国家権力の下いびつに抑圧され変形した発育不良の資本主義にすぎないんだ。「資本主義に対置されるような社会主義経済体制なんてものは存在しないんだ」ってはっきりいうべきなんだ。今、そこまでいえないんだったら、全共闘の「知的ラジカリズム」なんて修辞は返上すべきだとさえ思うよ。

付け加えるけど、今、現在の資本主義をしっかりと把握して、その中から転換の萌芽やきざしを見出していくのが、本来の社会主義運動だったはずだ。資本主義と何か別なものを理想型にするんじゃなしに、資本主義そのものの中に変革とか止揚とかの鍵を見出す努力を続けるべきなんだ。

『和紙散歩』

町田誠之『和紙散歩』(淡交社 1993)をパラパラと読む。
元々関西にあった神崎製紙の季刊誌に連載されていたものである。現代生活に欠かせない紙であるが、平安時代の紫式部や清少納言の頃から、日々の生活に必要な日常品でありながら、色や触り心地などで心をときめかす嗜好品の側面も併せ持つ。

江戸時代に仙台藩の支倉常長が慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した際に、彼が持参したチリ紙の質があまりに良いので、欧州の人が驚いたというエピソードが印象に残った。

『米から世界をかんがえる』

山岡寛人『米から世界をかんがえる:日本に農業はいらないのか』(ポプラ社 1995)を読む。
1993年の冷害と緊急の米の輸入(平成米騒動)という身近な問題をきっかけに、改めて米の持つ栄養的価値や日本の貧困な農業政策について分かりやすく説明している。