森本哲郎『ことばへの旅』(ダイヤモンド社 1973)を読む。
数年前に読んだ気もするが、もう一度読み返してみた。
古今東西15の名言の中から、森本氏が「私たちは、ことばの森の中で暮らしているのです。その果てしない森のなかで、すばらしいことばの木に出会ったときのよろこび そして、そのことばの木のなかに、イデア(本質)を発見したときの感動!」を掘り起こしている。
森本氏というと「旅」に関する著書が多いが、この本では、与謝蕪村(「門出づれば我も行人秋のくれ」)の章の中で、「旅」ついて次のように述べている。
なぜ人びとは旅へ誘われるのでしょう。それは、すっかり習慣になり、惰性になってしまっている機械的な毎日から抜け出したいためです。そんな毎日がやりきれないからなのです。
では、そのような日常の世界から抜け出して、いったい何を得たいと思うのでしょうか。むろん、ちがった世界を知りたいという好奇心は、だれにでもあるで しょう。しかし、ただそれだけではありません。じつは、自分を知りたいのです。旅に出ることによって、自分をみつめたいのです。自分をみつめることによっ て、人生の意味をつかみたいのです。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」というその月日の意味をさぐりたいのです。こうして旅人の姿は、探 求者の姿にぴったりと重なります。
また、アーノルド・トインビーの「文明とは港ではなく航海である。そして、これまでのいかなる文明も港に達したことはなかった」の言葉に触れて、次のように述べる。
私 たちは、戦争さえ防ぎ得れば、平和さえ守れば、自分たちの社会は豊かになり、無限に発展していくような気になっています。けれど、はたしてそのような楽観 が許されるでしょうか。私たちが、その中に生きている文明は、モヘンジョ・ダロ(突如消え去ったインドの古代の文明都市)が黙示しているように、まことに こわれやすいものなのです。極度に敏感な有機体と言っていいかもしれません。ほんのちょっとの油断が、無意識の怠慢が、たちまち死をもたらすのです。私た ちが、げんに住んでいる都市文明にしても、けっして安全な“港”なのではなく、われわれもまた、“港のない航海”をつづけいているのです。
この本は40年近く前に書かれたものであるが、森本氏は私たちの文明を「極度に敏感な有機体」と命名し、放射能汚染に脅かされる日本の現在の姿を見事に言い当てているといっても過言ではない。