『わたしの出会った子どもたち』

灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』(新潮文庫 1981)を読む。
灰谷氏というと、『兎の眼』の印象が強く、徹底的に性善説に立って子どもを見つめる教育者というイメージが強かった。しかし、この作品は小説ではなく、灰谷氏の自伝を含むエッセーとなっている。灰谷氏は7人兄弟の貧しい家庭で生まれ、中学校卒業後は職業安定所の列に並び、厳しい労働条件の中で定時制高校に通っていた。その中で、長兄の自殺や友人の死などに接し、人間を見つめる目を養っていく。当時を振りかえって、灰谷氏は次のように述べる。

(ある政党の若者サークルに入り、煽動活動をやっている時に)地下にもぐるというあの秘密めいた感じにぞくぞくするようなところがあった。小林多喜二などもそのころ、読んでいる。
同じころ、同級生だったMと恋愛関係を持つようになっていた。睡眠薬中毒にかかって、その女性をさんざん苦しめる。
飲食店で暴れ、Mがぼくをなだめて、ぼくを海につれ出す。ふと目覚めると、Mの顔がある。午前三時という時刻なのだ-そういうことがたびたびあった。
性欲をもてあますことと、死を考えることは奇妙に一致するものだが、ぼくもまた青春を黒いクレヨンでぬりつぶすようなことをしていたのだ。そのころのぼくの行動は何一つとして筋の通ったものがない。それが青春だといってしまえばそれまでだが、生活というものを一身に背負っていた長兄と比べると、青春の徘徊などと気楽なことはいって折れない。

また、こんなくだりがある。

朝鮮戦争の特需でわいていたとき、大量の橋桁の受注があった。兵器ではないにしても、それが朝鮮の人たちを殺す行為の何パーセントかの加担であることには変わりない。
ぼくは熔接をするとき、その部分にくず鉄を放りこんで熔接棒を焚いた。粗悪品を作ってささやかな抵抗をしたつもりだが、それを抵抗としてとらえる浅薄さが、そっくりそのまま当時のぼくの政治意識だった。

その後、灰谷氏は大学に進み、小学校の教員となる。17年間の教員生活を送るも、突然に職を辞し、あ沖縄やアジアを放浪する。そして放浪の果てに書いた作品が『兎の眼』なのである。確か中学校時代に感想文の宿題で読まされた記憶があ流のだが、彼の経歴を踏まえて読んでみると、また違った感想が出てくるのかもしれない。

その後、灰谷氏は教育評論家という道を歩んでいく。宮城教育大学で学長を務めながら、小学校で授業実践を続けていた林竹二先生は、授業のあり方について次のように述べる。

私の授業の展開は、あなたま枷で、ほとんど子どもがひっぱっていくわけです。よく、「何かプランがあるでしょう」ときかれるんですが、絶対にない(笑い)と私はいっているのです。自分が思いどおりに進行した授業はつまらない。子どもから思いがけないものが出てきて、こっちが面くらって何とか筋道を探り当てて展開していくような授業がほんとうはいい授業なわけです。そういう時に、まごまごする能力が教師には必要です。(笑い)ほんとうにまごまごしたり、子どもといっしょに途方にくれたりということが教師にも子どもにも必要なのですが、かっこうつけようとすると無理して強引に自分の答えられるところに問題を持っていってしまったりする。そういうことが授業をひどく貧しくするのでしょうね。

 

次に、本書の10年後に書かれた『林先生に伝えたいこと』(新潮文庫 1991)を手に取ってみた。『わたしの〜』の持つ「熱量」が薄れ、評論家っぽい文章が続くので途中で読むのをやめてしまった。

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