『詩のこころを読む』

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書 1979)をパラパラと読む。
谷川俊太郎や吉野弘、川崎洋、石垣りんなどの有名な詩人の作品を取り上げ、丁寧に解説を加えている。
平易な言葉で書かれているが、大学の授業でも十分に使えそうな内容となっている。
その中で、大岡信の「地名論」の詩と、その解説が興味を引いた。
ちょうど昨日、地名についての本を読んだばかりだったためか、茨木さんの解説がスーッと胸の奥まで染み込んできた。
後で使いやすいように引用しておきたい。

水道管はうたえよ
お茶の水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
サッポロ
バルパライソ
トンブクトゥーは
耳の中で
雨垂れのように延びつづけよ
奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ
時間の列柱となって
おれを包んでくれ
おお 見知らぬ土地を限りなく
数えあげることは
どうして人をこのように
音楽の房でいっぱいにするのか
燃えあがるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混じったベッドの上で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光が溢れ
風は鳩を受胎する
おお
それみよ
瀬田の唐橋
雪駄のからかさ
東京は
いつも
曇り
         ー詩集『わが夜のいきものたち』

(中略)
 おもしろいのは、この詩が或る予言的な役割を果たしたことでした。1976年頃に書かれたので、今から10年以上も前なのですが、ここ10年ばかりの間に、各地でむやみやたらの地名変更が行政的に進められました。アッと気づいた時には、紺屋町、鍛冶町、青葉台、木挽町、長者町、角筈、雑賀町、山寺道、狸穴、古くから由緒ある地名が、本町、緑町、中央通り、大通りなどという、おもしろくもない町名に変えられてしまっていたのです。1962(昭和37)年に「住居表示に関する法律」ができたためですが、町役場や市役所は、それでいったい、どれくらい便利さを得たのでしょうか。
 コンピューターに覚えさせる便利さとはうらはらに、私たちは大事なものを失ってしまいました。祖先がきりひらき住みなした土地に、後からやってきて住まわせてもらうのですから、敬意を表して、どの時代の人たちも古くからの地名を大切に守り、いじりまわすような馬鹿なことはしませんでした。だから今まで残ってきたのに、ここへきて急に思いあがった愚行を全国的にやってしまいました。
 古い地名と新しい地名をくらべると、昔の人がどれほど粋だったか、今の人がどれほど言語感覚も鈍(どん)かがわかり、驚かされます。それに、地名は歴史だけでなく地形を表現していることも多く、後世の研究にまつ、といったヒントをたくさん隠してもいます。長い歳月に文字は変わっても、地名の音だけは伝えてゆくという工夫も代々の人たちが残してくれていたのに。
 これではならじと1978年に「地名を守る会」というのが出来、全国的な規模で反対し見張るという運動が展開されることになりました。山形県米沢市のように、さらに踏み込んで、この改悪をくつがえし、すべて旧町名を復活させたところもあります。
 この会ができるのに先がけて10年も前に「地名論」が書かれていたのでした。

奇体にも懐かしい名前をもった
すべての土地の精霊よ

………………………………………………

名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている

 これらの詩行は、日本ばかりではなく、世界のすべての地名に対する愛情と讃嘆に満ち、なにひとつ説教はしないで、その大切さ、有難さを私たちに手渡してくれています。「地名論」と「地名を守る会」に直接のつながりはないのに、どこかでつながっているようで、これこそ社会現象のシュールレアリズムというべきでしょう。

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