竹内洋『教養主義の没落:変わりゆくエリート学生文化』(中公新書,2003)を読む。
現在の旧帝国大学の教養課程(東大以外は明確な教養部はなくなったが)にあたる旧制高校に焦点を当てて、教養主義がどのように変遷してきたかを探る。
仕事がら旧制中学や新制大学は詳しいが、旧制高校となると分かったようで分かっていない存在であった。旧制高校は文系の学問が中心で、実利的な法学や経済学よりも、文学や歴史学、哲学が尊ばれるエリートが身に付けるべき教養が中心であった。その歴史は小学校や中学校に比べて短く、明治末頃までに現在の東京大学教養学部にあたる第一高等学校から、現名古屋大学の教養部にあたる第八高等学校まで整備され、以降は「地名+高等学校」の形で官立の高校20数校が開校され、成城高校や武蔵高校、甲南高校など私立の7年制の中学高校も作られている。
男女共学の新制高校とは雰囲気が異なり、男子のみ、寮生活が基本で、バンカラな雰囲気が漂う学校であった。ちなみに、Wikipediaによると、バンカラという言葉も第一高等学校の学生の弊衣破帽の流行がもとになっている。また、教養主義とマルクス主義は同根のものであり、イマドキの言葉でいうと、マルクス主義は教養主義の上位互換にあたる。知的青年が教養主義からマルクス主義に移行することによって、教養主義空間の中で、上昇感を得ることができたようだ。
しかし、こうしたエリートの教養主義に対する反感は昔から強く、その急先鋒が石原慎太郎である。石原慎太郎は旧制中学校に入学しながら、新制高校を卒業している。しかし、ちょうど学制改革の移行期で、1952年に入学した一橋大学では旧制高校出身者が羽振りをきかせている。そうした雰囲気に反発を感じた石原は、慶応大学に進学した裕次郎を旧制高校へのアンチとして活躍させる。
後半は岩波書店、岩波文庫の教養主義における立ち位置や、学生運動における旧来の教養主義への反発と憧憬などが説明されている。