本日の東京新聞夕刊の訃報欄で、古筆学者小松成美氏の逝去が伝えられていた。
私の十数年前の大学の学部入学式というお祝いの席で、1時間近くに渡って専門の講義を続けた強者で、大変印象に残っている。
氏は古筆学という新しい学問を唱え大成させた人物として知られる。古筆学は中世や中古の文学作品の写本について筆跡の研究から筆者や年代を特定する学問である。せっかくのありがたいお話であったが、話の後半に入ると、私の周囲の学生だけでなく、壇上の教員も船を漕いでいた。その光景が記憶の片隅に今でも残っている。
どんな場であっても、顰蹙を買おうが、自分の学問については自身を持って語る、大学教授の矜持を感じた一時であった。
月別アーカイブ: 2010年5月
『サブプライム 逆流する世界マネー:経済危機が投資チャンスに変わるとき』
中井裕幸『サブプライム 逆流する世界マネー:経済危機が投資チャンスに変わるとき』(実業之日本社 2008)をサッと読む。
アメリカの不良住宅債権が証券会社のA級の金融商品として販売され、レバレッジを用いた先物取引やオイルマネーまで巻き込んで世界中に流れていた過程が例 えを用いて分かりやすく解説されている。しかし、自分の生活実感にほど遠い話だったので、後半は眺めただけに終わってしまった。
『最後の授業』
昨年度に引き続いて、また今週から森鴎外の『舞姫』を扱っている。少しドイツ文学でもと思い、本棚を物色したところ、カフカの『変身』、ミヒャエル・エン デの『果てしない物語』、エンゲルスの『空想から科学へ』の3冊が目に入った。しかし、どれも疲れている目と頭には過重な負担だと敬遠した。
そしてプロイセンに因むということで、ドーデ『最後の授業』(ポプラ社文庫 1981)をさらっと読んだ。文明対自然、機械対人間といった、子どもにも分かりやすい寓話が多数収録されているのだが、読みやすさを重視して翻訳したためか、作品のあらすじだけを読まされているような感覚が拭えなかった
『乳房』
第12回吉川英治文学新人賞を受賞した短編集、伊集院静『乳房』(講談社 1990)を読む。
表題作の他、4編が収められている。それぞれ主人公の名前も境遇も違うが、おそらくは、作者伊集院静氏の数奇な過去のその時々の姿が投影されていると思われる、私小説のような作品である。
よって、作者の人生をよく知らないので、作品としてはあまり面白くなかった。
『私の個人主義』
夏目漱石講演集『私の個人主義』(講談社学術文庫 1978)を読む。
主に明治44年の夏、関西で開かれた朝日新聞の主催による一連の講演に、書き直しが加えられたものである。
「道楽と職業」「現代日本の開花」「中身と形式」「文芸と道徳」「私の個人主義」と題した5つの講演が収められており、それぞれに明治維新以後40数年経った日本人や日本社会・文化の再定義という形をとっている。
この中で「道楽と職業」に採録された次の一節が気になった。100年以上前の文章であるが、現在大学で大流行の「就職支援」「ライフデザイン」の説明のようである。漱石の先見の明を感じる。
そ れで我々は一口によく職業といいますが、日本に今職業が何種類あって、それが昔に比べてどのくらいの数に殖えているかということを知っている人は、恐らく 無いだろうと思う。現今の世の中では職業の数は煩雑になっている。私はかつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えたことがある。建議 しやしませぬが、ただ考えたことがあるのです。何故だというと、多くの学生が大学を出る。最高等の教育の府を出る。勿論天下の秀才が出るものと仮定しまし て、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何か ないかと何かないかと血眼にさせて遊ばせておくのは不経済の話で、一日遊ばせておけば一日の損である。
(中略)
ちょうど嫁を貰うようなもので自分の嫁はどこかにあるに極ってるし、また向こうでも捜しているのは明らかな話しだが、つい旨く行かないといつまでも結婚が 遅れてしまう。それと同じでいくら秀才でも職業に打付からなければしょうがないのでしょう。だから大学に職業学という講座があって、職業は学理的にどうい うように発展するものである。またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、職業の文化発展 の意味も区域も盛衰も一目の下に瞭然会得出来るような仕掛にして、そうして自分の好きな所へ飛び込みましたら洵に便利じゃないかと思う。