月別アーカイブ: 2007年6月

『羅生門・鼻』

芥川龍之介短編集『羅生門・鼻』(新潮文庫 1968)を読む。
芥川の「王朝物」第一集ということで、他に『芋粥』『邪宗門』など8編が収められている。今昔物語など古典をベースした文体で少々読みにくいところがあるが、テーマは人間の心理の妙をつくもので面白かった。『芋粥』の中で作者は次のように述べる。何気ない内容であるが、ふと心に染み入った。

人間は、時として、充たされるのか、充たされないのか、わからない欲望(芋粥を飽きるほど飲んでみたいといった類いの欲望)の為に、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。

『古伝空手の発想:身体で感じ、「身体脳」で生きる』

宇城憲治監修・小林信也『古伝空手の発想:身体で感じ、「身体脳」で生きる』(光文社新書 2005)を読む。
これまで30数年当たり前のようにあった自分の身体意識そのものが覆されるような、目からウロコが落ちるような内容で一気に読んでしまった。宇城氏は伝統的な型を重んじる心道流空手の師範であるが、現役のフルコン選手の突きを見事の見切り、反撃してしまう達人である。
宇城氏は頭で相手の動きに反応し、鍛えた筋肉を意図的に動かすような動きを否定し、呼吸を調え、気を身体に充実させ、気の統一体を作ることで、機先を制し、爆発的な力を得る事ができると説く。そして、そうした「身体脳」を鍛え上げる道標は空手の型の修業にあると述べる。
本書は、単に机上の空論のみが展開されているのではなく、随所に身体全体を統一して使う動きが紹介されている。試しにイラストの通り身体を動かしてみると、ものの見事に力みが抜けて、すーっと身体が伸びていくことが実感できて、大変興味深かった。武道に興味を持っている方に是非一読をお勧めします。
また、宇城氏は沖縄空手を単なる護身術や格闘技としてではなく、調和する社会に生きる人間をつくるためのものだと捉える。宇城氏の次の言葉が印象に残った。

沖縄は約600年前、北山、中山、南山の三山に分かれて対立していた時代に、国を統一するために武器を捨て、平和の道を選んだ歴史があります。この歴史から武器をもたない手、現在の空手が生まれました。これが空手のルーツです。人を大切にする、争わない手の歴史こそ沖縄の心です。
スポーツのようにルールの中で勝敗を競う相対的な世界では、真の技は身につきません。調和融合を求める絶対的な世界に身を置いて稽古してこそ、技の無意識化はできます。

『「自分の木」の下で』

大江健三郎『「自分の木」の下で』(朝日新聞社 2001)を読む。
週刊朝日に連載されたもので、中学生や高校生に向けて、学校論や教育論、人生論が展開されている。大江氏独特の高踏的な文章スタイルは控えめになっており、自閉症を抱えた息子の光くんを育てていく中で経験的に培った思いが寄せられている。

いま、光にとって、音楽が、自分の心のなかにある深く豊かなものを確かめ、他の人につたえ、そして自分が社会につながってゆくための、いちばん役にたつ言葉です。それは家庭の生活で芽生えたものでしたが、学校に行って確実なものとなりました。国語だけじゃなく、理科も算数も、体操も音楽も、自分をしっかり理解し、他の人たちとつながってゆくための言葉です。外国語も同じです。
そのことを習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ、と私は思います。

しかし、所々で、私のような不勉強な庶民をあえて寄せ付けないような文章も散見され、途中で投げ読みになってしまった。

『死亡記事を読む』

諸岡達一『死亡記事を読む』(新潮新書 2003)を読む。
タイトルの通り、朝日、読売、毎日の3紙を読み比べ、定型のありふれた記事の行間から故人の生前の活躍や各社の姿勢の違いを読み取る。視点は良いのだが、文章は練られておらず、自費出版的な雰囲気の漂う作品である。

『社会人大学院へ行こう』

山内祐平・中原淳・社会人大学研究会編著『社会人大学院へ行こう』(日本放送出版協会 2003)を読む。
社会人生活から大学院へという、これまでの日本では難しかった新しい学びのスタイルを分かりやすく紹介する。実際に大学院に通うに当たって退職や転職を経験した人へのインタビューも交え、大学院修了イコールばら色の将来ではないという現実も突きつける。
少子化で経営に苦しむ大学側とスキルを身に付けないと生き残れないサラリーマン、生きがいを見つけたいと願う青い鳥族たちの思惑が今のところ一致しているのであろう。特に研究者養成ではなく、社会人再教育の大学院がここ最近、ことに増えている。
長い人生、1年ないし2年自分の研究テーマを追うというのも格好いいとは思うのだが、仕事や家族のことを考えるとどうしても二の足を踏んでしまう。さて、どうするか。

日本人はとかく計画を立てたがる。何十年先まできちんと計画を立て、その通りに動かないと気持ち悪いという人も多い。計画を立てることは大事だが、さまざまな出来事をきっかけに計画を柔軟に変えていき、その過程を面白いと思えること、それが世界に対して開かれているということである。
今の日本には、社会人大学院へ行くことを大学に入る前から考えている人はほとんどいないだろう。つまり、社会人大学院へ行くこと自体が、人生における計画の変更なのだ。自分を信じ、将来の不確定性を無限の可能性に読み替えるところから、この冒険は始まるのである。