月別アーカイブ: 2006年3月

『手のうごきと脳のはたらき』

つい先日子どもが妻の実家より戻ってきて、家族3人の奮闘が始まった。わずか4キロ弱の乳児のむずかる声に一日中振り回されている。。。眠い、ねむい、nemui iiiiiiiiii、、、iiiiiii iiiii、、、、、、、、 、、、、、、。。。。

香原志勢『手のうごきと脳のはたらき』(築地書館 1980)を読む。
埼玉県深谷市でさくら保育園を運営する斎藤公子さんの主催した市民大学での著者の講演がまとめられている。香原氏は人類学を専攻しており、カントの「手は外部の脳である」という言葉を引用しながら、生物の進化はイコール手の進化であり、猿は手を器用に使うことで他の哺乳類以上に環境への適応能力を高めたし、ヒトは猿以上に手を繊細に用いることができ、大きく文明を発展させてきたと述べる。そして、特に幼児期においては○×式の頭の訓練をするよりも、紐を結んだり、ナイフを用いたりするなど手指の訓練をすることが大切だという。斎藤氏は次のように述べ、幼児教育の基本を示している。いたずらな早期教育の罠に惑わされず、子どもの遊びを大切にしていきたいと思う。

子どもたちの「手」を使っての水遊び、砂・泥の遊び、粘土・紙を使っての遊び、絵を描く、木を切る、ひもを結ぶ、糸をあむ、糸で縫う、まりやボールで遊ぶ、木登りをするなどは、すべて昔から子どもたちに伝えられてきたものである。もちろん土運び、庭掃除、床のふき掃除、動物の飼育、畑づくりなどの労働も、ここ2、30年まえまでは多くの子どもたちにとって、毎日当然のこととして、させられていた家庭内労働でもある。こうした遊びや労働が、じゅうぶんに子どもたちに保証してやれるかどうかが、子どもたちを健全に発達させてやれるかどうか、につながってゆくのである。
(私たちの園の教育は)一貫して、人間の歴史が教えてくれている「労働が人間をつくった」という事実から学び、まず、「手」と「足」、「体」をつくることに専念している、といってよい毎日のつみかさねなのである。

『歴史教育はこれでいいのか』

高橋史朗『歴史教育はこれでいいのか』(東洋経済 1997)を読む。
「新しい歴史教科書をつくる会」の役員だけあって、教科書のように非常に分かりやすい文章の構成には好感が持てる。高橋氏自身の教育哲学は彼自身の次の言葉に端的にまとめられるであろう。

近代合理思想は、善と悪、正と誤など非常に厳密な二分法論理に立脚するが、社会適応か自己実現か、系統学習か経験学習かなどの教育行為の両極性をこのような二分法論理に立って二者択一に捉える旧パラダイムから脱却して、お互いを活かし合い、補い合う相互補完関係として包括的に捉えるホリスティックな新パラダイムへの転換が求められている。文化の継承と創造を生き方の視点から捉え直し、伝統を創造的観点から再発見し、生きる力・自己実現の基礎力として再生させる必要がある。

そして、歴史教育においても左右の善玉・悪玉史観を乗り越えて、「東京裁判史観」を見直し、真に自由な教育論争が求められると述べる。歴史教育について著者は次のように述べる。

歴史教育はどうあるべきか。古代史の始まりに、考古学的事実と並べて、それとは別に、神話や古代歌謡の世界をもう一つの歴史として子供たちに教える必要がある。歴史は神話でもなければ科学でもない。神話は古代世界の科学であり、科学は近代世界の神話にすぎない。
(中略)歴史は科学であるよりも、むしろ文学に境を接している。歴史教育を社会経済史の奴婢にせず、人間のドラマとして自己回復させる必要がある。つまり歴史教育には物語性が回復されなければならない。

私自身は著者の上記に意見の骨子には賛成だ。現在の歴史教科書や参考書は史的事実の列記のみで、その中で動いてきた人間に焦点が当てられていない。しかし、その人間ドラマはあくまで民衆のドラマであり、私たちが学ぶべきものは、民衆の中で語り継がれてきた民話ドラマである。そこにこそ社会の底辺で暮らし、社会を支えてきた人間の汗臭い匂いが詰まっている。「新しい歴史教科書」で採り上げられているような日本武尊の神話や二宮尊徳の活躍が日本の土地の歴史を象徴していると著者が考えているとしたら、それは明らかに歴史を歪曲している。

著者自身は上記のような歴史観に基づいた教科書のあり方について次のように述べている。

もとより教科書は執筆者自らの独創的な史観や斬新な学説を開陳する場であってはならず、深い「教育的配慮」に基づいて書かれなければならないことはいうまでもないことである。しかし、だからといって検定によって教科書の個性を奪い、思想に介入してもよいということにはならない。子どもたちが「歴史嫌い」になるのはこのような没個性的な、入試に必要な最小限の「死せる知識」を詰め込んだ教科書で教えられているからである。

これまた、著者の主張の中身は正しい。おそらくは家永三郎の主張とも大きく重なるところであろう。高橋氏の主張の中身がそのまま彼に対する批判の論拠となっているのが何とも不思議である。とはいえ、読みやすい文章とも相俟って彼の意見自体は興味深いところはある。
問題は彼を県の教育委員に選定する上田知事の思想であろう。最近埼玉県でも行き過ぎたジェンダーフリーに対する警告めいた文章が流れているが、石原都知事の後追いに懸命な上田知事の政策の顕れであろうか。

『みみずくの夜メール』

五木寛之『みみずくの夜メール』(朝日新聞社 2003)を読む。
朝日新聞の月曜朝刊に1年半にわたって連載されたコラムを集めた本である。言い間違いや健康について、はたまた、子どもの頃や旅行のふとした思い出など、日常生活の中で思い浮かぶそこはかとないよしなしごとがざっくばらんにまとめられている。

『アフリカのこころ』

土屋哲『アフリカのこころ:奴隷・植民地・アパルトヘイト』(岩波ジュニア新書 1989)を読む。
ルワンダに関する映画を観たので、アフリカの歴史を復習したいと思い手に取ってみた。大航海時代以降、アフリカがヨーロッパによって恣意的に分割され、収奪されてきた歴史が分かりやすく書かれている。著者は最後に日本人がアフリカの未来を考える枠組みとして次の言葉でまとめている。差別が蔓延るする社会全般を見渡す視点としても記憶するに値する文章である。

ところで、世間には先進国とか発展途上国とか後進国といった国際的な用語がある。そして日本は先進国の仲間に入っている。私たちがいま心すべきは、アフリカをふくめてアジアその他の第三世界のひとびとと接するとき、先進国という位置からうしろ向きにアフリカ見るようなことは絶対に避けなければならない。そういう姿勢では、アフリカの人々の信頼をかちとることはできないし、折角の援助も実を結ばないであろう。アフリカがいま立っている位置に私たちの身を置いて、前向きに未来に向けてともに歩むという心構えが大切なのだ。この点アフリカの人びとは、奴隷制と植民地支配という二重苦にとことん苦しんできただけに、人の心の機微を見通す力は実にすごい。私たちがアフリカの人びととつきあう場合、〈アフリカのこころ〉と固く結ばれていなくてはならないのである。

小泉チルドレン

今日の東京新聞朝刊に、「小泉チルドレン」の一人である稲田朋美自民党衆院議員のインタビューが載っていた。今の時代にこんなごりごりな右翼議員がいたのかと開いた口が塞がらなかった。渡辺昇一を崇拝し、明治維新の成功は天皇親政にあると考え、日本が守るべき伝統や文化や道徳教育の在り方などを研究する「伝統と創造の会」を創設したという。まさに女版西村真吾のような華々しい経歴の持ち主である。
彼女は特に靖国問題に関心があるようで、小泉総理の参拝に対し「一国民として感謝しています」と述べた上で、「ポケットからのさい銭チャリーン、の参拝はいかがなものかな。昇殿しきちんと参拝してほしかった」と述べる。さらに、「実は国民の道徳心の低下は靖国問題に集約されている。どんな歴史観も自由だし侵略戦争の批判もあっていい。でも、国を守るために突撃した先人に感謝や敬意を表すことができない、(それを)教えられないのは道徳の退廃につながると思う」と述べ、教育基本法の改「正」を主張する。
彼女自身の危険性もさることながら、そんな彼女を衆院議員として信任してしまう今の国民の風潮が怖い。