堺屋太一『「次」はこうなる』(講談社 1997)を読む。
1998年から2000年にかけて小渕・森内閣において経済企画庁長官になる直前の、一番片意地を張った態度を取っていた頃の本であり、果たして著者の予想通りに日本経済が推移したのか、検証を加えながら読み進めた。
私の勝手な分析によると、著者の物の考え方には、「明治維新の頃の役人は進取の気性に富みとにかく偉い」、「著者が通産省に在職した1970年代までの役人は向上意識が高く偉かった」、そして、「1980年代以降の役人は非効率な拡大再生産を繰り返すだけの無能な存在である」「イギリスやアメリカの役人は、変化に機敏に対応することができる」「民間は常に経営努力を怠らず、近年の役人よりも優秀である」といった固定観念が強く蔓延っている。そのため、あらゆる事象を上記の公式に当てはめれば自ずと政策判断ができるかのように、いんちきな予備校講師紛いの言説が延々と繰り広げられる。真面目に読んでいると嫌気がさしてくる。
中には、少子化の進行によって、微細な差異にこだわるマニアが生み出される一方で、極めて同質をモットーとする社会構造が生み出されるだろうなど的を射た分析もある。
徹底した公務員改革を打ち上げるが、一方で、税金の無駄な使用が極めて多い自衛隊や宮内庁には批判の矛先は向けていない。これまた彼のスタイルであろう。
自由競争、自由経済は、機会の平等を重視する。機会が平等なら結果は不平等にならざるを得ない。それを心理的に克服してすべての人間の社会的安全を維持する。いわば「ホームレスのいない自由社会」こそが、これからのあり得べき世の中であろう。(中略)いまはじまろうとしているメガ・コンペティションの時代に、日本が世界の仲間入りをするためには、競争社会において成功した人を讚える美風が必要になる。
最近、小泉内閣がこれまでの総中流社会すらも「ぶっ壊し」て、格差社会を作り出したとの批判があるが、堺屋氏の上記の見解を読むにつけ、現在の「勝ち組・負け組」社会は、まさに橋本・小淵・森内閣から続く金融ビッグバン政策の結果であることが分かる。いやそもそも、自民党の党是は自由市場主義にあり、ここ数年指摘されている社会階層の格差を計るジニ係数の増加も自民党政権の目指すべき到達点なのである。全てを小泉純一郎個人のパーソナリティに帰してしまう安易なマスコミ的考え方は避けるべきである。