本日の東京新聞夕刊の以倉紘平氏の「学校って何だ」というコラムが興味深かった。少々長いが転記してみたい。
学校改革、教育改革が進んでいる。平成15年度の「文部科学白書」は、高校教育の個性化、多様化をうたって次のように述べている。〈生徒の能力・適性・興味・関心・進路などが多様化する中で、各学校が生徒それぞれの個性を最大限に伸長させるためには、学習の選択幅をできる限り拡大して、多様な特色ある学校づくりを進めていくことが大切です〉
一見、良いことづくめだが、ここには巧妙に覆われ、隠されていることがある。それが〈学級〉〈級友〉というクラス集団、共同体の軽視、否定の思想である。生徒の個性、多様な欲求のニーズに応えようとして、〈学習の選択幅を拡大〉すれば、その理想型は、ミニ大学のようになり、生徒は各自、時間ごとに自分の選択した科目に応じて教室を移動することになる。単位制高校ともなれば、なるほど、本人の進路希望に合わせて、柔軟に履修科目は設定できるが、生徒は登校しても固定した自分の教室も机もない。学校からの連絡は、掲示板か所定のメールボックスに文書で通知される。単位の取得についてはすべて自己責任、自己管理の原則が貫かれるのである。
いったい「責任」を果たすべき、「管理」すべき「自己」、未成年者である人間の教育は、どこで行われるのであろうか。かつて〈学級〉は、人生と人間を学ぶ舞台であった。級友との対話、対立、競争、理解、協調、団結、友情等々。学級は泥んこになって集団と個人の関係を学び、自己を主張し、他者を理解するきわめて重要な教育の場であった。
「学級崩壊」という言葉がある。学級が自浄能力をなくしていじめの温床と化している現実からすれば、学級を軽視する教育行政の考えはわからないでもない。しかし、その結果として個性の伸長、開花の大義名分の裏側で、生徒たちはますます巧妙に分断され、他者との関係、他者との深い絆を失って、それぞれが自己の欲望の充足、個人生活の向上、消費生活の充実の方向へ誘導されて行くのである。
知識、単位の取得だけなら、学校はいらない。家庭にいて、インターネットで十分である。厖大な人件費も設備費も必要でなくなる。学校は、人間を教育する気概と情熱を持たなければ、いずれ無用の時代がやって来るだろう。