月別アーカイブ: 2003年9月

『高校中退』

小林剛『高校中退』(有斐閣新書1987)を読む。
主たる読者として高校教師を意識したのか、高校中退の現状分析から中退を巡る教員・生徒の論理、そして退学を防ぐための解決策を提示する。ここ近年大学進学も視野に入れたサポート校が増えてきて「退学する自由」がかなり保障されてきて、現在には通用しないなと思われる部分もかなりあった。著者は学校の雰囲気に合わないという安易な理由で転退学を肯定したり、また人生の落伍者といった烙印を押すように否定的に中退をとらえるのでもない。著者は次のように述べる。

中退問題に出くわして教師や親にとって大切なことは、中退しようと考えている生徒ないし子どもに対して、それを安易に認めるのでも、一方的に否定することでもなく、中退することをめぐって本人がどれだけ真剣に自分自身の中で苦しみ、闘っているかを見極めさせることです。
安易に中退に走って自己の現実から逃避しようとしている生徒ないしは子どもに対しては、とことんその生徒が自己のこれからの生き方を賭けて真剣に中退することを考えているか、自問しているかを確かめ、そうでなかった場合は、生徒をギリギリまで考えさせ自問自答させた上で、最後の選択を本人にまかせるべきだと思います。そうした上での選択であるならば、多少のつらさがあっても彼らはそこを越えて生きていくに違いないだろうと思います。ここに初めて、たくましくしたたかな人生が生まれてくるのです。

しかし、上記のような事は学校中退だけでなく、転職、また離婚といった人生での大きな決断を迫られる時に共通する心構えであろう。自分で選んだ学校だから、自分で選んだ職場だから、自分で選んだ相手だからこそ、その最終的な価値判断も自分に帰って来るのである。

『ロボコン』

robocon_movie

古厩智之監督『ロボコン』を観に行った。
ウォーターボーイズを彷佛させるようなハッピーエンドの予想通りの展開であったが、高校生世代ががむしゃらに一つの目標に向かっていく姿はやはり清々しい。予算に見合った良い意味で背伸びしていない映画であった。たまにはこのような淡々とした映画もよい。

『首相官邸』

江田憲司・龍崎孝『首相官邸』(文春新書2002)を読む。
官房長官や総理秘書官、総理補佐官等の内閣府の仕組みが分かりやすく説明されている。2001年2月からスタートした「中央省庁の再編」、特に「首相官邸の機能強化」「首相のリーダーシップ強化」の方針は、小泉総理誕生と相俟って表面上は思惑通りに進んでいるかのように見える。実際、小渕元総理以上に官僚の力がより強くなったという指摘はある。しかし、小泉総理以前は首相と自民党幹事長の料亭密約で政治が動いている感があったが、ここ最近は総理大臣と官房長官を中心とした、閣僚会議や内閣府内の「経済財政諮問会議」等の戦略会議での政策決定がマスコミを賑わすことが多い。政権与党がポストを牛耳っている委員会ではなく、首相官邸でトップダウン的に政策が決まる傾向が年々強くなっている。また裏を返せば、現在の自民党幹事長である山崎幹事長の影は、スキャンダルの影響もあってか、国民の眼からは薄いものになってしまった。各派閥の調整役であった自民党幹事長の存在感のない現状に派閥力学解消の象徴が垣間見える。
先週来、自民党総裁選を巡り、野中広務元幹事長の辞任など橋本派が大きく揺れている。元々、橋本元総理が種をまいた「官邸主導」型政治によって、当の橋本派が分裂に追い込まれるのは多少の皮肉であろうか。

『プロレスvs格闘技 カリスマ大戦争』

ターザン山本『プロレスvs格闘技 カリスマ大戦争』(KKベストセラーズ2001)を読む。
近年「格闘技」というジャンルが生まれ、プライドというプロレス出身者でも柔道、空手出身者でも参戦できるリングが用意される中で、プロレスが「格闘技」に飲み込まれ、「プロレス」という定義が曖昧になってきた現状をつぶさに追っている。確かに総合格闘技という曖昧なジャンルが確立されつつある中、元祖総合・異種格闘技であるプロレスの醍醐味は薄れつつある。しかし、ターザン氏は「プロレスファンは、プロレスは記録ではなく記憶であることを、よく分かっている。一方、野球ファンはペナントレースが終われば、その試合の記憶は全部、無意味となる。もはや記憶は消すしかないのだ」とプロレスを定義づける。そして「K-1やPRIDEが、あれだけ世の中から注目され持てはやされると、もはや格闘技のダンディズム(質素・質実・禁欲的)はどこにもないだろう。あれは形を変えたプロレス(虚栄)」だとお客絶対主義・観客至上主義に行き着いた格闘技の行く末を心配する。球技なら野球とサッカーのどちらが強いかという憶測はありえないが、リングの上で1対1だと、無理矢理でも異種交流試合が通用してしまう「格闘技」は人気誘導のマスコミの影響を受けやすく、常にそのアイデンティティが問われてくるのだろうか。ちょっとカッコイイまとめ方だが。。。

『呪怨2』

juon2_movie

昨日映画『呪怨2』(清水崇監督・脚本)を観に行った。
身の毛もよだつような恐怖シーンの連続で大変疲れる映画だった。特別惨忍な登場人物や血がどくどく飛び出す場面などないのだが、匿名性の恐怖がうまく演出されていた。芥川龍之介の作品で有名な『羅生門』に「頭身の毛も太る」という恐怖の心理を表す表現あるが、まさに毛が太るような息を飲む演出はさすがと言いたい。おそらくは続編も用意されているのだろう。