月別アーカイブ: 2002年12月

『もてない男』

小谷野敦『もてない男ー恋愛論を超えて』(ちくま新書 1998)を一気に読む。
恋愛をすることが当たり前になった時代の中で、改めて恋愛を問い直そうとするものである。確かに現在の日本では、中学生くらいになると恋愛(孤独からの逃避とも言えるが)が関心事の第一に君臨し、そこから外れてしまう者は不安を感じ、そこから目を背けようとするものには「真面目」のレッテルが貼られてします。著者のいう「恋愛イデオロギー」が蔓延しているといっても過言ではない。

「ストーカー」という言葉の定義は明確ではない。狭くは、面識もない相手を追い回す者と定義できるが、広くは、面識のある相手を追い回してもストーカーと呼ばれるらしい。前者が異常だとしても、後者はぜんたい「罪」なのか。そのことを私は考えた。
結論はこうである。恋愛は誰にでもできる、という「嘘」が、恋愛のできない者を焦慮に追い立て、ストーカーを生むのである。だから、恋愛を礼賛する者たちに、ストーカーを非難する資格はない。「恋愛は愚劣だからやめておけ」と言える者にして初めてストーカーを非難する資格があるのである。

著者は童貞であることの不安や自慰行為について社会学的な立場だけでなく、文学研究の観点からも綿密な分析を加えている。森鴎外の『青年』や田山花袋はつとに有名であるが、同じ森鴎外の『雁』や二葉亭の作品に中に、自慰は不貞としてしまった「近代」を捉え直そうとする著者の観点は面白かった。恋愛小説は世の中に数多いが、恋愛という「常識」を不安だと考える立場から文学を眺め直すと、また違った文学の流れが見えてきそうだ。

『夜と霧』

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房 2002)を読む。
『もし世界が百人の村だったら』の訳者で著名な池田香代子さんの新訳で読みやすかった。アウシュビッツに近い強制収容所での経験を描いた作品であるが、戦争に対する批判よりも、極限の状態から得た「生きる意味」を真摯に捉える作品であった。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

おそらくこの究極の言葉の前に、あらゆる人生教訓的な金言格言は意味を失ってしまうだろう。生きる意味を問う余裕すらない収容者の言葉であるが、現在の私達の心に強く響いてくる。引きこもりを続けている者やいじめに遭っている者こそ読んでほしい本である。私達が 日常悩んでいることを客観視できるかもしれない。

『落第坊主の履歴書』

遠藤周作『落第坊主の履歴書』(文春文庫 1993)を読む。
学生の頃彼のエッセーを数冊読んだことがあったので、1時間半くらいで軽く読み流す程度に読んだ。『桜島』を著わした梅崎春夫のエピソードが面白かった。梅崎氏の何事にも生真面目な姿をうまく捉えていた。

今日は先週の疲れが残っている感じがしたので、近所の春日部温泉に出掛けたのだが、さすがに春日部温泉のサウナの中で本を読んでいるのは私だけだった。いつも風呂の中で本を読んでいるので、手に何も持たずに風呂に入るのが落ち着かなくなってしまった。私は朝いつも新聞片手にトイレに入っているのだが、しかしこれまたわずか数分程のことなのだが、新聞なしでトイレに入るのが何か時間の無駄のように感じてしまうのだ。習慣とは恐ろしいものだ。歳とともに柔軟性がなくなってくるのか、自分の変な行動を変えることが段々難しくなってくるのをつくづく実感する次第である。

平和記念展示資料館

今日は実家近くの歯医者に出掛けた帰り、新宿西口の三井住友ビルにある平和記念展示資料館へ行ってみた。
総務省認可法人である平和記念事業特別基金が主体となっているもので、特に恩給欠格者、戦後強制抑留者、引揚者のための支援活動と広報活動の拠点である。シベリアでの強制抑留や旧満州での引揚時の悲惨な生活に関する展示で占められている。それぞれは資料も分かりやすくまとまっており興味深かった。しかしでは、なぜ日本人が中国を始めとしてアジア各国を侵略していったのか、当時の中国人、韓国朝鮮人がどのような苦しい生活を強いられたのかという点は意図的に抜いてある。平壌からの悲惨な引揚体験は詳しく説明するが、日韓併合、南京大虐殺には全く触れていない。ガイド役の職員の話を少し聞いたが、太平洋戦争について、ABCDラインに追いつめられ、苦しい生活を強いられた日本人という観点からの説明に終始していたようだ。

『海と毒薬』

二つめは遠藤周作『海と毒薬』(新潮社文庫 1960)である。
戦争末期の九州の大学付属病院を舞台とした米軍捕虜の生体解剖事件を小説化した作品である。一人の米軍捕虜を生きたまま解剖実験に処するという極々小さいエピソードであるが、日本人全体の抱える罪の意識の希薄さとと、国家や組織に倫理観すら奪われてしまう日本人の精神的な弱さという問題を読者に突き付けている。この問題はおそらく日本文学全体が避けてきたテーマである。近代以降の文学はそれ以前の封建的な道徳から反発することで展開してきた。夏目漱石や森鴎外こそがその代表例といって良いだろう。・・・これ以降はまだ考えがまとまらないので、後日改めて。