五木寛之処女作品集『さらばモスクワ愚連隊』(講談社文庫)を十年ぶりに読み返す。
小説の内容よりも高畠通敏氏の解説の方が興味深かった。『艶歌』という作品について高畠氏は次のようにコメントを寄せている。
六十年代日本において、急速な農村分解と人口の都市集中が起るなかで、新しく浮かび上がってきた問題は、大企業の労働組合にも入れてもらえない臨時工や中小企業に働く未組織労働者の問題だった。それはまた、大学から中途で抛り出されて、転々とマスコミ産業を素手で渡り歩く五木自身の問題に他ならなかった。この視点に執着するなかで、五木には、今日の管理社会における基本差別が、組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別であり、それは、出世民主主義のルートにのったエリートと農村から流民化して都会に流れこむ大衆との差別として近代日本において本質的な問題であることに眼を開かせる。その問題をさらに社会的に掘れば、アメリカの黒人、日本の部落民の差別の問題につき当り、自身の中に掘れば、朝鮮からの引揚者として故郷を喪失し流民化した少年体験にも連なる。「デラシネ」「流民」「ルンペン・プロレタリアート」は、五木において同質のものとしてとらえられ、それこそが、五木のイメージにおけるサブ・カルチュアをになう大衆の原像となるのだ。
この中で、「近代日本の本質的な問題」を「組織に入っている人間と未組織のプロレタリアートの差別」とした高畠氏の指摘は評価に値する。これは大企業や労働組合、学生自治会だけの問題ではない。一般ピープルである私たち自身がいくつも抱えている問題である。近年東京・大阪の都市において、行政は「市民の生活を脅かす」という名目で「ホームレス」を駅・公園から追い出す施策を次々に打ち出している。最近は自立支援センターの開設など改善されてきているが、新宿や渋谷の駅・公園に機動隊が導入され強制排除されたことは記憶に新しい。しかしここでいう「市民」とは一体何なのだろうか。「市民」が「市民」でないものを排斥するという思想は容易にファシズムへと転化する。差別や抑圧は外見的な差異の少ないもの、に対する方が激化しやすい。身体「障害」者に対する差別よりも精神「障害」者に対する差別意識の方が強く働く。また明らかに人種が異なる者に対するよりも、外見にはあらわれない宗教や言語、政治や風俗といったイデオロギーを異にする者への抑圧意識の方が強く働く。高畠氏のいう「組織」を別の言葉で置き換えれば、そのまま21世紀の現代に横たわる様々な問題への警句となろう。
しかし、日本の労働構造の中で最底辺に位置する日雇い・野宿労働者が、実は巨人軍長島茂雄の大ファンであり、皇太子妃雅子さんの子供の誕生を喜ばしく思ってしまうという現実に「市民」はどう向き合えばよいのだろうか。