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『大学教授になる方法』

鷲田小彌太『大学教授になる方法』(青弓社,1991)を読む。
タイトルの通り、大学教授になるためのハウつー本である。著者が勤務する札幌大学の教員採用選考の過程まで具に公開し、かつては象牙の塔と思われていた大学の世界を顕にする。著者は最後に次のように述べる。

私は、大学は、未だ、エリート養成の大学から大衆大学へといたる過渡期を完了していない、と考えている。学生の方は、ほぼこの過程を完了しつつあるといってもよい。しかし、大学の組織や機能、とりわけ大学教員は、この過渡期のなかでもがいているというのが現状なのである。大衆大学への変貌を否定的にのみ見るのは、論外である。西部選がいったように、大学教員という「専門」人は大衆の原型である。私は、西部とは違って、それでよいと思っている。精神的貴族になりたい人はなればよいが、そんなことは希なのであって、希なことを大衆(多数)教育のなかにもちこむのは、邪道なのである。問題は、大衆にしかすぎない大学教授が、精神的貴族ぶっていることにこそある。これこそ、笑うべきことなのである。大学教員が、知的エリートたらんとすることを否定したいわけではない。しかし、ほとんど不可能に近いことを要求するに似ているのである。

全共闘の頃と問題意識が近い。
明治大学法学部社会学の栗本慎一郎教授にも触れられていた。栗本教授は学生時代からコピーライターのバイトをしていたようで、「やめられない、とまらない、カッパえびせん」のコピーを書いたとのこと。知らなかった〜〜。

『脳のはたらきがわかる本』

小長谷正明『脳のはたらきがわかる本』(岩波ジュニア新書,2006)をパラパラと読む。
専門用語の羅列が少なく、中高生にも読みやすい内容であった。ペンフィールドのホムンクルスも紹介され、脳の働きについて記憶や思考、行動、感情、睡眠などの観点から例を交えながら説明している。

じつは脳にも男女差があります。サイズこそ男性のほうが大きいのですが、女性のほうが相対的に前頭葉が広く、かつ神経細胞の密度が高いことが最近わかってきました。(中略)女性のほうが知性や考える場である前頭葉が広いというのは、男性が論理的で女性が感情的といわれていることとはニュアンスが異なります。でも、こまかい記憶をつなぎあわせてつぎつぎと論理を組み立てていき、頭と口の早い回転は前頭葉の機能がすぐれている証拠かもしれません。男性のほうは、ちみつな論理展開ができない結果、枝葉末節にとらわれないので、ものごとのアウトラインを把握しやすいのかもしれません。

『ヒトのからだ事典』

石浦章一『ヒトのからだ事典』(岩波ジュニア新書,1992)をパラパラと読む。
先日読んだ丸山工作著『筋肉はなぜ動く』よりは、まだ中高生に読ませるような工夫があったが、生化学という分野はどうも苦手である。私たち人間の体内の仕組みなのに、分子レベルの運搬や受け渡し、消化など、極めて無機的な印象が強く残る。十二指腸がちょうど指12本を並べた長さに由来するという説明しか印象に残らなかった。

『外国語としての日本語』

佐々木瑞枝『外国語としての日本語:その教え方・学び方』(講談社現代新書,1994)をパラパラと読む。
著者はカリフォルニアにある州立大学を卒業され、日本語学・日本語教育を専攻され、実際に横浜国立大学で留学生に日本語を教えている教授である。そのため、日本語の文法だけでなく、留学生が勘違いしやすい言い回しや日本語の発音で躓きやすい語の

〔問題〕「次の『しています」はそれぞれどんな風に意味の違いがあるでしょう」

  1. 今、彼に手紙を書いています。
  2. ドアが開いていますよ。閉めていただけませんか。
  3. この道は、くねくねと曲がっています。
  4. ジムは去年、富士山に登っています。
  5. 家には毎日大工さんが来ています。

『北京の旅』

陳舜臣『北京の旅』(平凡社,1978)をパラパラと読む。
北京原人から春秋戦国時代の燕の首都、李自成の乱による北京攻略、現在(といっても50年前だが)の近代化した北京の様子まで、さらっと時間軸を超えていく。

北京を首都とした清朝は、満州族が漢民族を支配する強固な体制というイメージが強い。満漢併用制や辮髪の強制など、満州族の独自性を貫いたと思っていたが、本書によると、清末にはほとんどの満州族は満州語が話せなくなったそうである。皇帝自身も漢語しか話せないほど、中国に呑み込まれていったという解釈が正しいのであろう。