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ラルフ・ネーダー

昨日で懸念の試験が終わり、ほっとする間もなく、近所の公民館へ参院選の投票に行った。
とりあえず社民党の候補に一票を入れておいたが、私の入れる候補は必ず落ちるという不吉なジンクスは今回も守られてしまった。昨夜はどのテレビ局も自民党の「凋落」、民主党の「躍進」を大々的に伝えていたが、よくよく結果を見ると、「革新派」の議席を民主党が確実に食っている左翼陣営総崩れの現状がありありと露呈してきた。6年前の参院選で社民党は改選議席を16議席から5議席に減らし、3年前と今回の2回の選挙で共産党は15議席から4議席まで衰退している。戦争は反対だし、憲法9条の平和主義を変えることには抵抗感がある「リベラル」な層が雪崩を打って、政権交代の受け皿である民主党にとりあえず一票を投じているのだろうか。

今日の東京新聞の夕刊に気になる記事が出ていた。
米大統領選に無党派で立候補している消費者運動家のラルフ・ネーダー氏に共和党支持者から献金が相次いでいるという話だ。ネーダー氏は民主党支持層の票を奪うとされ、ブッシュ支持者が「敵の敵は見方」の論理で献金したとみられている。ネーダー氏は無党派のため、州によっては大統領選の投票用紙に名前が載らない可能性が高い。このため共和党は、オレゴン、フロリダ、ウィスコンシン、ミシガンなど、民主党との接戦州でネーダー氏の名前を載せるべく、規定数の署名を集め支援しているという。パワーゲームに長けているアメリカならではの話とこれまでは笑い飛ばしていたが、小選挙区で二大政党制が根付いてくると、日本でもいつ自民党が戦略として用いるか疑念は拭えない。今後自民党の支持基盤と社民党や共産党の裏のつながりに注意を払う必要がありそうだ。

本日の東京新聞の鎌田慧氏は次のようなコラムを書いている。私は支持したいが、彼ならではのいつまでも変わらない「レトロ」な主張という感想は否定できないであろう。

あと二年もゴーマン首相の勝手放題をみるのはいやだ、という人々は、きっと動きだすであろう。国会のなかばかりが民主主義の場ではない。次の選挙で「国政」を変革できるかどうか、それは国会のそとでの、小政党や少数派労組や地域労組、市民運動などの「連帯」と「共闘」とにかかっている。

「学校って何だ」

本日の東京新聞夕刊の以倉紘平氏の「学校って何だ」というコラムが興味深かった。少々長いが転記してみたい。

 学校改革、教育改革が進んでいる。平成15年度の「文部科学白書」は、高校教育の個性化、多様化をうたって次のように述べている。〈生徒の能力・適性・興味・関心・進路などが多様化する中で、各学校が生徒それぞれの個性を最大限に伸長させるためには、学習の選択幅をできる限り拡大して、多様な特色ある学校づくりを進めていくことが大切です〉

一見、良いことづくめだが、ここには巧妙に覆われ、隠されていることがある。それが〈学級〉〈級友〉というクラス集団、共同体の軽視、否定の思想である。生徒の個性、多様な欲求のニーズに応えようとして、〈学習の選択幅を拡大〉すれば、その理想型は、ミニ大学のようになり、生徒は各自、時間ごとに自分の選択した科目に応じて教室を移動することになる。単位制高校ともなれば、なるほど、本人の進路希望に合わせて、柔軟に履修科目は設定できるが、生徒は登校しても固定した自分の教室も机もない。学校からの連絡は、掲示板か所定のメールボックスに文書で通知される。単位の取得についてはすべて自己責任、自己管理の原則が貫かれるのである。

いったい「責任」を果たすべき、「管理」すべき「自己」、未成年者である人間の教育は、どこで行われるのであろうか。かつて〈学級〉は、人生と人間を学ぶ舞台であった。級友との対話、対立、競争、理解、協調、団結、友情等々。学級は泥んこになって集団と個人の関係を学び、自己を主張し、他者を理解するきわめて重要な教育の場であった。

「学級崩壊」という言葉がある。学級が自浄能力をなくしていじめの温床と化している現実からすれば、学級を軽視する教育行政の考えはわからないでもない。しかし、その結果として個性の伸長、開花の大義名分の裏側で、生徒たちはますます巧妙に分断され、他者との関係、他者との深い絆を失って、それぞれが自己の欲望の充足、個人生活の向上、消費生活の充実の方向へ誘導されて行くのである。

知識、単位の取得だけなら、学校はいらない。家庭にいて、インターネットで十分である。厖大な人件費も設備費も必要でなくなる。学校は、人間を教育する気概と情熱を持たなければ、いずれ無用の時代がやって来るだろう。

「日本人の自己表現の文体」

本日の東京新聞の夕刊に大江健三郎氏の外国特派員協会での「日本人の自己表現の文体」と題する講演会の模様が掲載されていた。
その中で大江氏は「参院選が終わったら教育基本法が改正されると思う。それから後は平和の文化は日本にはなく、戦争への運動だけが残る。その大きな危機に対し、お母さん方や若者が反対する運動をつくれば、日本人がまじめに平和を考える人間だとアジアやヨーロッパの人に考えてもらい、世界の文化会議に参加出来る状態になる」と、今後の平和運動の基底に憲法と教育基本法を尊重する姿勢が必要であると指摘し、「今も心の中では、教育基本法を守るデモの先頭に立っている」と語ったという。
憲法が過解釈によって骨抜きにされた以上、教基法の理念を守っていくという学生運動の原点に返っていくことは大切であろう。しかし教育基本法を反戦の原点に持ってくる前に、より一層現在の現場での教基法の理念の共有化が求められる。

「都立大学の改革の方向」

今日の東京新聞の夕刊に「都立大学の改革の方向」と題して南雲智都立大教授の石原慎太郎都知事による新大学構想に反対の論が掲載されていた。
大学の自治が都によって侵害されており、学問の自由を守るべきだという分かりやすい論であった。しかし、目指すべき都立大学のありようについては展開されていない。南雲氏は中国文学が専門ということだが、現在の日本の社会状況の中で、文学の価値、そして大学において文学部、文学科が必要とされる意義について自分の言葉で語ってほしい。都民から注目される「都民の大学」という宣伝文句だけでは石原都知事に負けてしまうだろう。

カシヤノフ首相

本日の東京新聞に夕刊で、モスクワでの下院選挙の投票所でカシヤノフ首相が女性から卵をぶつけられる騒ぎを報じていた。
首相が投票箱に投票用紙を入れようとした時、「カシヤノフ、選挙は茶番よ!」と叫んだ女性が卵を投げつけ首相の肩に命中し、女性は取り押さえられたということだ。カシヤノフ首相はロシアの記者団に「これも民主主義の一部」と平静に答えたそうだ。前後の文脈は分からないが、ロシアの政治もかなり変わってきたようだ。まさに民衆の直接行動を包括してこそ民主主義である。イラク戦争反対の声を排外する「自由と民主主義」の政党が牛耳るどこかの国の首相だったら「民主主義を冒涜する行為である」と語気を荒げるであろう。日本における民主主義の成熟はまだまだ時間がかかりそうだ。