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「ブラインドとしてのオリンピック」

本日の東京新聞夕刊の星野智幸氏の「ブラインドとしてのオリンピック」と題したコラムが興味深かった。
今月に入ってからアテネ五輪の報道がテレビ新聞を賑わせており、「ニッポン」が連呼され、金メダルラッシュによって君が代が何度も流れた。「左翼」的な文脈に乗るならば、「健全」なスポーツを隠れ蓑にして天皇制ナショナリズムが強化されたと書くところだろう。しかし、筆者はそうした安易な議論に異議を差し挟む。なぜなら、本当にナショナリズムが高揚しているのだったら、大会期間中に起きた沖縄米軍ヘリ墜落事故に対して強烈な反米感情が沸騰しているはずであり、政治的なナショナリズムとスポーツにおける愛国感情とは一体のものではないという証明になっていると述べる。

オリンピックはナショナリズムを煽り立てはしない、と私は思う。ただひたすら、見る者を高級な非日常に「日本」という名前を与え、感動の物語に変える。現実の構造とは切り離された、気分の上だけの淡い愛国感情と一体感が、現実を見ないことを正当化する。むしろ、今の日本はナショナリズムに対して免疫がないと思う。五輪で目を逸らしているうちに無意識に蓄積された鬱屈が、いざ現実を直視させられたとき、非常に安直な形のナショナリズムとして爆発することを私は恐れている。

米軍ヘリ墜落事故

本日の東京新聞の朝刊で、沖縄国際大学で起きた米軍ヘリ墜落事故のその後の推移についての丁寧に報道が載っていた。
幸いにも怪我人が出なかったため、単なる不遇な事故として扱われ、アテネオリンピックの報道合戦の陰に隠れてしまったが、何とも不愉快な話である。安易な「安全点検」終了後、事故の2日後には普天間飛行場での輸送が再開され、10日も経たないうちに同型のヘリが「イラクの自由作戦」への展開指令を受けて同飛行場から飛び立っている。すでに在日米軍は日本を他国の脅威から守るものではなく、米軍の一国中心主義の世界戦略の一端を担っているに過ぎない。沖縄の米軍基地は、米軍の一方的な正義のみが喧伝されるイラク戦争の「後方」基地であり、アジアにおける米軍のプレゼンス(脅威)を示すための「広報」基地になっているのである。

昨日沖縄の稲嶺知事と小泉首相が日本の捜査権を阻む日米地位協定の改定について話しあったが、党派的な言い方をするならば、沖縄における米軍基地のレーゾンデートルを無視した上での改定論議は「全くもってぇ、自民党小泉政権による茶番以外なにものでもない!」ものである。イラク戦争の是非、北朝鮮を含めたアジアにおける協同的な安全保障の枠組みという視点に立って、この米軍ヘリ墜落事故を見ていきたい。

ラルフ・ネーダー

昨日で懸念の試験が終わり、ほっとする間もなく、近所の公民館へ参院選の投票に行った。
とりあえず社民党の候補に一票を入れておいたが、私の入れる候補は必ず落ちるという不吉なジンクスは今回も守られてしまった。昨夜はどのテレビ局も自民党の「凋落」、民主党の「躍進」を大々的に伝えていたが、よくよく結果を見ると、「革新派」の議席を民主党が確実に食っている左翼陣営総崩れの現状がありありと露呈してきた。6年前の参院選で社民党は改選議席を16議席から5議席に減らし、3年前と今回の2回の選挙で共産党は15議席から4議席まで衰退している。戦争は反対だし、憲法9条の平和主義を変えることには抵抗感がある「リベラル」な層が雪崩を打って、政権交代の受け皿である民主党にとりあえず一票を投じているのだろうか。

今日の東京新聞の夕刊に気になる記事が出ていた。
米大統領選に無党派で立候補している消費者運動家のラルフ・ネーダー氏に共和党支持者から献金が相次いでいるという話だ。ネーダー氏は民主党支持層の票を奪うとされ、ブッシュ支持者が「敵の敵は見方」の論理で献金したとみられている。ネーダー氏は無党派のため、州によっては大統領選の投票用紙に名前が載らない可能性が高い。このため共和党は、オレゴン、フロリダ、ウィスコンシン、ミシガンなど、民主党との接戦州でネーダー氏の名前を載せるべく、規定数の署名を集め支援しているという。パワーゲームに長けているアメリカならではの話とこれまでは笑い飛ばしていたが、小選挙区で二大政党制が根付いてくると、日本でもいつ自民党が戦略として用いるか疑念は拭えない。今後自民党の支持基盤と社民党や共産党の裏のつながりに注意を払う必要がありそうだ。

本日の東京新聞の鎌田慧氏は次のようなコラムを書いている。私は支持したいが、彼ならではのいつまでも変わらない「レトロ」な主張という感想は否定できないであろう。

あと二年もゴーマン首相の勝手放題をみるのはいやだ、という人々は、きっと動きだすであろう。国会のなかばかりが民主主義の場ではない。次の選挙で「国政」を変革できるかどうか、それは国会のそとでの、小政党や少数派労組や地域労組、市民運動などの「連帯」と「共闘」とにかかっている。

「学校って何だ」

本日の東京新聞夕刊の以倉紘平氏の「学校って何だ」というコラムが興味深かった。少々長いが転記してみたい。

 学校改革、教育改革が進んでいる。平成15年度の「文部科学白書」は、高校教育の個性化、多様化をうたって次のように述べている。〈生徒の能力・適性・興味・関心・進路などが多様化する中で、各学校が生徒それぞれの個性を最大限に伸長させるためには、学習の選択幅をできる限り拡大して、多様な特色ある学校づくりを進めていくことが大切です〉

一見、良いことづくめだが、ここには巧妙に覆われ、隠されていることがある。それが〈学級〉〈級友〉というクラス集団、共同体の軽視、否定の思想である。生徒の個性、多様な欲求のニーズに応えようとして、〈学習の選択幅を拡大〉すれば、その理想型は、ミニ大学のようになり、生徒は各自、時間ごとに自分の選択した科目に応じて教室を移動することになる。単位制高校ともなれば、なるほど、本人の進路希望に合わせて、柔軟に履修科目は設定できるが、生徒は登校しても固定した自分の教室も机もない。学校からの連絡は、掲示板か所定のメールボックスに文書で通知される。単位の取得についてはすべて自己責任、自己管理の原則が貫かれるのである。

いったい「責任」を果たすべき、「管理」すべき「自己」、未成年者である人間の教育は、どこで行われるのであろうか。かつて〈学級〉は、人生と人間を学ぶ舞台であった。級友との対話、対立、競争、理解、協調、団結、友情等々。学級は泥んこになって集団と個人の関係を学び、自己を主張し、他者を理解するきわめて重要な教育の場であった。

「学級崩壊」という言葉がある。学級が自浄能力をなくしていじめの温床と化している現実からすれば、学級を軽視する教育行政の考えはわからないでもない。しかし、その結果として個性の伸長、開花の大義名分の裏側で、生徒たちはますます巧妙に分断され、他者との関係、他者との深い絆を失って、それぞれが自己の欲望の充足、個人生活の向上、消費生活の充実の方向へ誘導されて行くのである。

知識、単位の取得だけなら、学校はいらない。家庭にいて、インターネットで十分である。厖大な人件費も設備費も必要でなくなる。学校は、人間を教育する気概と情熱を持たなければ、いずれ無用の時代がやって来るだろう。

「日本人の自己表現の文体」

本日の東京新聞の夕刊に大江健三郎氏の外国特派員協会での「日本人の自己表現の文体」と題する講演会の模様が掲載されていた。
その中で大江氏は「参院選が終わったら教育基本法が改正されると思う。それから後は平和の文化は日本にはなく、戦争への運動だけが残る。その大きな危機に対し、お母さん方や若者が反対する運動をつくれば、日本人がまじめに平和を考える人間だとアジアやヨーロッパの人に考えてもらい、世界の文化会議に参加出来る状態になる」と、今後の平和運動の基底に憲法と教育基本法を尊重する姿勢が必要であると指摘し、「今も心の中では、教育基本法を守るデモの先頭に立っている」と語ったという。
憲法が過解釈によって骨抜きにされた以上、教基法の理念を守っていくという学生運動の原点に返っていくことは大切であろう。しかし教育基本法を反戦の原点に持ってくる前に、より一層現在の現場での教基法の理念の共有化が求められる。