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教科書検定

昨日、文部科学省は2006年度から使われる中学校用教科書の検定結果が発表した。

文科省は従来、学習指導要領の範囲を超える記述を認めなかったが、内容を削減した新指導要領が批判を受け「指導要領は最低基準」と方針を変更し、教科書に発展的内容の記述を可能とした。子どもの理科離れの危惧が指摘され、特に理科や数学の発展的内容が増加しているのが特徴である。

教科書検定の是非は措いといて、理科の教科書に発展的内容が追加されたのは歓迎したい。現在中学校の化学の復習をしているのだが、現行の中学校の教科書では、元素の周期表の記載が認められておらず、覚えるべき基礎的な元素記号のみしか載っていない。元素を体系的に覚えることが出来ず、化学反応の公式がかえって理解しにくいものになっている。公式の暗記よりも興味・関心を高めたいという学習指導要領の狙いなのだろうが、化学分野は基礎的な化学反応を概念で捉えないと逆に興味も生まれにくいと感じる。物理も同様で公式の暗記に意味がないとして、物体の運動や電気の流れなど不自然に日本語で説明がくり返されており理解にとまどってしまう。高校入試の参考書よりも、大学入試の基礎問題集の方がよっぽど理解しやすいという変な現象が起きてしまっている。高校入試レベルの理科を徹底することは、いんちきな宗教や政治にだまされないための民主主義教育の根幹である。

本日の東京新聞の夕刊

本日の東京新聞の夕刊に一橋大学教授の鵜飼哲氏の談話が載っていた。
東大の駒場寮や法政の学生会館など学生が自主的に自己形成してきた場ががなくなっていることについて、「迷惑はいけない、安全という名目で自由な空間や時間を奪い、人間を窒息させる自殺行為」だと断じる。そして2005年における抵抗の条件について以下のように述べる。
明確な批判なり、欠点を指摘することも大切だが、まずは「ちょっと待てよ」と踏みとどまることが抵抗の第一歩だと鵜飼氏は述べるのだ。「上意下達」に物事を鵜呑みにし、「大人のふり」をして、何ごとも分かったような顔をするのは止めろということだ。

 今の危機は何か、踏みとどまって考えること。抵抗の第一歩は踏みとどまることです。何も言わなければ抵抗にならないという考えはありますが、僕は多様であっていいと思う。無党派、引きこもり、年間三万人という自殺者…いずれも抵抗の一つでしょう。自殺は、十年で三十万人近くが死んだ、自分に対する内戦だったと考えるべきです。
新たに学ぶというよりある種、学んでしまったことを捨てること。体や心をズラして、ゆったり構えて持続することが一番大事かもしれない。中国文学者の竹内好は、日本の“一木一草に天皇制がある”と書いた。息の長い文化闘争が必要なんだと思います。まずは日本人を拘束してきた“迷惑”という言葉の使い方を考え直してはどうでしょう。

本日の夕刊

 本日の夕刊にブッシュ米大統領の就任演説の要旨が載っていた。その中でブッシュ大統領は「この国での自由の存続は、他国での自由の成功にますます左右されるようになった。世界平和を達成する最短の道は、全世界に自由を拡大することだ」とし、そのために「必要な時には、武力によって自らと友人を守る」としている。そして、「自由の究極的勝利を確信してわれわれは前進する。それは神の意志による選択だ。米国は新世紀の始まりにおいて全世界の人々に自由が行き渡ることを宣言する」とまとめている。
 まるで大航海時代におけるアジアの封建制を解放せんと意気込むカトリックの宣教師のような演説である。

 話は変わるが、創価学会の池田大作代表はフィリピン大学での講演会で次のように述べている。「自由」を「公正」という語に置き換えただけで、ブッシュ米大統領と学会のおせっかいな論理は非常に似ている。このようなありがた迷惑な親切心の押し売りは、黙って無視するわけにもいかず、断固とした拒絶の意志を表明することが大事である。

 ビジネスは、その本来の性格から、経済効率をあげ、利潤を追求することを第一義としています。もしビジネス人が事業に左右され、「企業の論理」や「資本の論理」しか眼中にないとするならば、行き着く先は、利潤をめぐる争いであり、それはしばしば戦争の誘因にさえなってきました。

 ビジネスが平和構築のために貢献をなそうとするならば、そうした論理を「人間の論理」のもとにリードせねばならないでありましょう。

 そのために何が必要か――。私は平和を志向するビジネス人の精神的バックボーンとして、端的に「公正」の精神を挙げてみたい。日本語の「公正」には、一方で「公平」や「平等」、他方で「正義」の意味が含まれております。

 興味深いことに貴国の言葉「カタルンガン」が、まさに日本語の「公正」の二つの意義、つまり「正義」と「平等」という両義をはらんでいるとうかがい、私は新鮮な感動をおぼえました。こうした「公正」な精神の持ち主は、経済活動によって、ともすれば富める国、富める階層がますます富み、貧しい国、貧しい階層がますます貧しくなっていくといった矛盾を決して見逃さないでありましょう。

 ビジネスの世界にあっても、一企業、一国のみの「部分益」に執着せず、地球人類という「全体益」に立脚しつつ、時には、自らの利害を超えた尊い自己犠牲さえいとわぬ「公正」な判断を可能ならしむるにちがいありません。

「このまま終わっていいのか」

あけましておめでとうございます。寒い日が続きますが、皆様のご健康をお祈り申し上げます。

 本日の東京新聞朝刊に元東大全共闘のメンバーで弁護士の秋山洋氏の談話が載っていた。私自身の今年一年の目標はまだ定まっていないが、「このまま終わっていいのか」という秋山氏の言葉を胸に刻んでいきたい。

 僕らの世代はベトナム反戦が共通項だった。ベトナムで毎日、人が死ぬ。もっと平和な時代に生きたい。黙っている自分が嫌だ、というイライラが常にあった。大学紛争が敗北し、次の世代はしらけた。でも、いまのイラクだってベトナムと同じ。お前はどうするんだと考えさせられる。自衛隊派遣はおかしい。昔だったら、大学にバリケードができるんじゃないか。
 ヒッピーのように既成の価値観にしばられない視点が好きだった。うさんくさい自己否定でなく、僕は自己肯定派。学生運動でも異端と見られた。ただ、僕らに一番欠けているのは人生の目標。同世代の中には「このまま終わっていいのか」という声がある。僕もそうかなと。おもしろい時代を生きてきた、得したなと思うからこそ。

本日の東京新聞の夕刊

 本日の東京新聞の夕刊に、パウエル米国務長官が外交専門誌「フォーリン・ポリシー」に、ブッシュ政権を取り巻く状況分析に関する論文を寄稿したとの話が載っていた。
 パウエル国務長官は来年早々にも退任予定だが、長官は「テロを起こした者たちを裁き(justice)にかけるだけでなく、人々に公正(justice)をもたらしたい」とし、途上国の飢餓問題やエイズなど感染症への対策、人々の生活の基盤をなすと同時に観光資源にもなる貴重な自然の保護も訴えたそうだ。そして貧困解決を図るためには、腐敗した独裁的な政権にも改革を迫っていく必要も強調したということだ。彼の主張は、イラクの市民の生活基盤を目茶苦茶にし、自然を破壊し、アメリカ傀儡の軍事政権を作ろうとするブッシュ政権に対する批判となる。パウエル氏の指摘する真っ当な平和への道筋がブッシュ政権で浮いてしまうということは、逆にラムズフェルド国防長官を中心とした政権内タカ派の異様さが照射されてくる。