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謹賀新年

newyear2006

公私共々大きな節目を迎える一年になりそうです。健康第一に乗り切っていきたいと考えています。紅白が終わって一息ついて、近所の春日部八幡神社に出掛けた。10円のお賽銭で、妻の安産と交通安全をたっぷりと祈願してきた。

本日の東京新聞一面に、靖国神社の支援母体である崇敬奉賛会が「日本が好きになる歌」として募った曲が昨年11月末にコンサートで披露された、との記事が掲載されていた。記事では二十代三人組のバンド「AreiRaise」の「矜持」という曲が紹介されていた。
「あの原子爆弾 2個もってして 焼き尽くせなかったもんですぜダンナ あんな惨禍超えてきたんだやっぱ日本てスゲー(中略)逆襲の日本さあ来るぞ まずは心に核武装」といった歌詞の曲が500人の聴衆を前に披露されたとのことだ。元旦から嫌なニュースである。このような扇情的な極右勢力を追いつめていけるだけの理論武装が求められる。

今日の東京新聞朝刊一面

 今日の東京新聞朝刊一面で、八王子で米兵が男児3人ひき逃げ事故を起こして逮捕されたのだが、米軍の方から「公務証明書」が出され、日米地位協定に基づき即日、米軍に引き渡した、というニュースが報じられていた。記事の中で「普天間基地爆音訴訟」を率いる原告団長の島田善次さんの言葉が歯切れよい。

 本土も沖縄と同じだな。沖縄では同じような事件がこれまで何度も起きているが、地位協定を盾にして、加害者の兵士は何も罪にとがめられるどころか、帰国してしまった者もいる。日米の軍事再編が問われる今、やすやすと加害者の兵士を逃してしまうような政権に対して、国民はもっと怒りの声を上げてほしい。

 日本はこのような治外法権にも近い不平等な地位協定にいつまで縛られなければならないのだろうか。冷戦後の軍事の枠組みという「大文字政治」はよく分からないが、このような日常的な事件を真摯に関心をもって見ることで、問題の本質の一端が顕れ出てくるのである。

 さて石原東京都知事はこの事件で年明けにどのようなコメントを出すのであろうか。民主党前原党首の目には、中国軍と米軍のどちらがより脅威に写るのだろうか。年末の忙しさで事件自体を忘れてしまいそうだが、この問題に対する各界の視座に注目したい。

「論壇時評」

本日の東京新聞夕刊の「論壇時評」というコラムで、宮崎哲弥氏が小泉政治の対抗軸についての展望について言及している。宮崎氏は、小泉型「構造改革」政治、「新しい自民党」路線に対するオルタナーティブ(もう一つ別の政治路線)の一つとして、道場氏の提案するネットワークやコミュニティなどを重視した「下から」の公共性の醸成に可能性を見出している。(以下転載)

例えば、社会運動史家の道場親信氏は「『国家の言うままにならないという記憶』(鶴見俊輔)を分かちもつコミュニティ」の探求あるいは模索のなかから、ネオリベラリズム的「改革」への対抗理念を掴み出す可能性に賭けている(「〈戦後〉そして歴史に向き合うことの意味は何か」『論座』)。

その具体的な戦略とは、例えば政府や地方自治体に対する「『コミュニティ』再建のための費用負担要求、『公民』としての権利要求」であり、道場氏はそうしたムーブメントがやがて「国家を揺さぶる力」になり、「新たな『連帯』の『伝統』を作り出す」ことを期している(「『戦後』と『戦中』の闇」『現代思想』12月号)。

昨日の東京新聞夕刊

昨日の東京新聞夕刊に、自衛隊イラク派遣反対のビラを配るために、東京都立川市の防衛庁舎に無断で立ち入ったとして住居侵入罪に問われた市民団体のメンバーが東京高裁にて逆転有罪判決を受けたとの記事が載っていた。防衛庁職員の身体やプライバシーに何らの危害を加えることなく、単に自衛隊派遣反対の意思を表明しただけで罰せられるという恐ろしい事件である。被告らは最高裁へ上告したそうだが、住居侵入罪という微罪ではなく、後々の民主主義を守るために、表現の自由という観点から、論議が展開されるべきである。

詳細は立川反戦ビラ弾圧事件のホームページへ。

静岡大学助教授の笹沼弘志氏は、今日の東京新聞朝刊で、「判決では『他人(自衛官)の権利侵害』の中身を『イラクへの派遣命令の拒否を促す』ビラの内容としている。肝心なことは侵害の中身が自衛官のプライバシーなどではなく、ビラで揺れる自衛官の士気という国家機能という点だ。結局、政治的言論だから機制すべきだという判断だ」と述べ、そして、「ビラは言論の基本だ。それを配る自由抜きに民主主義は成り立たない」と、一昔前ならばタカ派の政治家にとっても当たり前の条理を述べている。

さらに、評論家平岡正明氏は、本日の東京新聞夕刊で、自身が青春時代を過ごした1960年代と現在を比較して次のように述べている。

いつからこんな窮屈な時代になったんだろう。いかがわしく猥雑なものがはらむ思想の可能性、正しいかどうかより面白いかどうかの方法を僕らは追い続けてきた。でも、現代はそれが通じません。民主主義のルールで言論統制こそしませんが、犯罪や暴動の意味とはなどと言うと、必ずその後で口ごもらざるをえなくさせる気分のファシズムが社会を覆っている。いかがわしさの封じ込めが正常化と思われているわけですが、実はそれは社会の弾力が弱まり、個性や想像力が単純になっていることでしょう。禍々しさや異論の余地のない、誰でも肯定するようなお手軽な考えを、僕は思想とは思わない。

戦争は遠い海外からやってくるのではなく、私たちの日常生活の足下から生まれてくるのである。そのことを忘れてはならないだろう。

本日の東京新聞

本日の東京新聞のスポーツ欄の中で、元横綱・千代の富士のコラムに次の文章が載っていた。

朝青龍は、千秋楽も危なげなく勝って、年間最多勝記録を84に伸ばした。1年間で負けたのが、たったの6番。この記録はおそらくこれからも破られることはあるまい。私も年間最多勝をとっているが、確か80勝だったと記憶している。いまと状況が違い、周囲の横綱、大関は強者ばかり。苦労に苦労を重ねての記録だっただけに、すごくうれしかったことを覚えている。それより4勝も多い記録には完全に脱帽だ。周囲を見渡しても、敵らしい敵は見あたらない。強いてあげれば、これから力をつけてきそうな琴欧州ぐらい。

どう読んでも、強者の少ない中で連勝を重ねる朝青龍よりも、ライバルがひしめき合う中で最多勝を獲得した私(千代の富士)の方が記録としては素晴らしいのだということをアピールしているとしか読み取れない。編集サイドでもう少し文章を整理することができなかったのだろうか。