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民間校長

 本日の東京新聞に民間企業から埼玉県の飯能市立双柳小学校長に着任した中村恵太朗校長が紹介されていた。
 日産ディーゼル工業において経理や人事畑で30年間勤務した後、「小学生のときに親や教師から教えられたことは忘れない。いいかかわり合いをつくる手助けをしたい」と教育界に飛び込んだということだ。彼は「管理職がすべきことは、会社でも学校でも、そう変わらない。ビジョンを示して現場の声に耳を傾け、課題を共有して環境を整え、個人を目標に向わせる。それが基本」「どちらがいい、悪いじゃなく、会社と学校のギャップを指し示し、先生や子どもの能力を引き出すエネルギーに変えていきたい」と語る。今どきの管理職には珍しく至極真っ当な見解である。
 「非常識」な考えを持った教員集団の中で、企業の「常識」が通用するのかどうか、大変に苦労されていると思うが、子どもから一番離れている(離れたがっている)管理職集団に気持ちの良い風穴を空けてほしいものだ。

終身刑制度の創設に向けて

本日の東京新聞夕刊に、終身刑の創設を求めてバイクで全国を行脚して署名を集めているイタリア出身のストッキ・アルベルトさんの記事が紹介されていた。ストッキさんは、七度目の出所後も放火を繰り返した元会社員によって、妻と子どもを子どもを失い、自身も火傷を負っている。そして犯人は昨年六月に求刑通り無期懲役が言い渡され一審で刑が確定した。しかし、ステッキさんは、「無期懲役だったので被告は六十歳になる前に仮出獄する。仮出所のない終身刑制度の創設は、悪質な再犯者から社会を守るために必要です」と静かに語る。

ストッキさんは死刑制度を必ずしも全面的に支持しているわけではないということだが、「妻や娘の死を無駄にはしたくない。必ず終身刑の法律をつくります。たとえホームレスになってもあきらめません」と述べる。

署名への問い合わせは電子メール mailto:minervai@rhythm.ocn.ne.jp

「自由」とは

本日の東京新聞の社説は、まさに東京新聞の良心を象徴するような内容であった。何度も繰り返し論じられてきた教科書的な「自由」論ではあるが、「自由」を濫用し強者の「自由」ばかりを正当化する小泉政権に対して厳しい批判を投げつけている。

週のはじめに考える“自由”を問い直す

権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。

■押しつぶされる“心”
どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。
そこで「自由」について基本から考えます。一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源(えんげん)です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。

■内心に踏み込む法規範
日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。「およそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本である自由競争に関しても疑問が浮かびます。経済活動における自由とは、役所や役人からあれこれ細かな指図を受けないで、当事者同士の合意に基づいて取引や契約ができる状態をさします。これも「権力からの自由」であって、強い者が思うままに振る舞う自由ではありません。フランス人権宣言第四条には「自由とは他人を害しない範囲で自分の権利を行使できること」とありますが、日本の現実は「強者がより強くなる権利」になっていませんか。
例えば、雇用規制緩和、働き方の多様化など美辞麗句のもとパート、派遣、契約、業務請負など企業側の労働力コストを引き下げる雇用形態が広がりました。その陰で、大部分のごく普通の労働者は企業の支配的地位の前に不利な条件でも労働を余儀なくされています。国税庁調査による民間企業労働者の平均給与は七年連続で減少しています。参入が自由化されたタクシー業界では、運転手の年収が十五年前の30%減です。平均が生活保護基準を超えているのはわずか十都県、家族を抱えて二百万円以下の人もいます。それでいて車両を増やし、収入を確保している会社が多いのです。市場原理とは強い者だけが生き残る「ジャングルの自由」のことなのでしょうか。「規制緩和」や「構造改革」「市場原理」などのかけ声に金縛りになったかのような日本社会は、小泉改革を批判的に論じるには勇気を要する雰囲気に支配されています。でも、小泉内閣の強引な手法に懐疑の目を向ける人がやっと最近になって増えました。現実を無視できなくなったのです。
映画「白バラの祈り」が全国各地で上映され、静かに、しかし着実に観客を集めています。一九四三年のドイツで、ナチズムに抵抗する運動をした若者が逮捕され処刑されるまでの五日間の実話です。

■良心圧した追随、迎合
映画のテーマは、事実を直視し、心の命ずるままにナチに反対した若者の良心だけではありません。ヒトラーに忠勤を励む政治家や官僚、権力者に追随、迎合する民衆など、当時のドイツ社会を映しています。時代は違いますが、何となく類似性を感じさせる日本の現状に対する不安が、人々に映画館へ足を運ばせるのではないでしょうか。

「初期雇用契約」『ルポ解雇』

ここ数日フランスで、若者雇用促進政策「初期雇用契約」に対する学生の抗議が続いている。ソルボンヌ大学などの学生のデモも1968年のスチューデントパワーの再来のように激しいものとなっている。日本でもここ数年で劇的に正規労働者が減る一方で、パートや派遣などの非正規労働者が増加し、所得の格差がアメリカ並に拡大し、優勝劣敗の社会に変貌しようとしている。健常者すら正規採用は狭き門になっているのに、ましてやいわんや障害者をや。しかし、パリでの労働に対する熱い闘いも、マスコミの報道に接する限り日本では対岸の火事である。どうしてなのだろうか。

Paris200603

そこで、島本慈子『ルポ解雇:この国でいま起こっていること』(岩波新書 2003)を読んでみた。
島本さんは労働基準法改正案や労働裁判の過程を具に検証する中で、解雇理由の立証が経営サイドに有利に進められ、復職に向けたフォローもない現在の労働裁判の実態を明らかにする。労働は人間性の基盤そのものであり、商品でない。司法の独立により身分保障された職業裁判官に非正規雇用労働者の苦しみがどれだけ実感として分かってもらえるだろうか。
島本さんは雇用の流動化が日本社会の様相を大きく悪い方向に変えてしまうと危惧する。そして次の言葉で論をまとめている。規制改革の号令の下で雇用の保障すらも撤廃し、リストラを敢行した企業が株式ゲーム市場で評価され、一部の成功者だけを持ち上げるマスコミを巧みに操作する小泉政権に対する鋭い警鐘が含まれている。

(全日空の子会社の下請け企業で、従業員が一斉に解雇された)関西航業の人たちの言葉で心から離れない一言がある。
「身分は下であっても、一人に人間として生きる権利は同じではないか」
この叫びを踏みにじる方向へ、この国は動いている。「労働者が多様な働き方を選択できる可能性を拡大」というスローガンのもとに、企業にとって利用しやすい雇用形態が作られ、「働き方」に応じた労働条件を確保するという文句で、下に位置する者への不当な扱いも公認されていく。いま作られようとしているのは「身分によって生きる権利が変わる」社会であり、「職業には貴賎がある」という思想を公然と語る差別社会である。

芸術のフランス語からビジネスの英語へ

今朝の東京新聞に、EUの首脳会談で、フランス人のセリエール欧州産業連盟会長が演説の途中で「ビジネス用の言葉にする」とフランス語から英語に切り替えた途端に、仏シラク大統領と外相が会議を中座したとの報道が載っていた。小さい記事を読む限りの判断だが、恐らくはフランス国内向けのパフォーマンスであろうが、あくまで自国語にこだわるというシラク大統領の姿勢は評価できる。
フランス語を話せるということは合理的理性的な「近代」的素養をもった人間の証であり、フランス語の前では民族や宗教、地域といった「前近代」的なイデオロギーは無力化されてきたという歴史がある。言語ナショナリズムが他者の排斥ではなく、他民族の受け入れを促してきた側面がある。
日本でも戦前のようなアジア諸国に対する不健全な言語政策ではなく、いい意味で移民問題を解決できる言語のあり方を考えていきたい。