投稿者「heavysnow」のアーカイブ

「食料自給率 最低37%」

本日の東京新聞朝刊に、農林水産省が発表した2020年度の食料自給率に関する記事が掲載されていた。掲載されているグラフにカロリーベースと生産額ベースの2つが並ぶ。カロリーベースとは農林水産省のホームページによると、次のように説明される。

カロリーベース総合食料自給率は、基礎的な栄養価であるエネルギー(カロリー)に着目して、国民に供給される熱量(総供給熱量)に対する国内生産の割合を示す指標です。

カロリーベース総合食料自給率(令和2年度)
=1人1日当たり国産供給熱量(843kcal)/1人1日当たり供給熱量(2,269kcal)
=37%生産額ベースは以下のとおりとなっている。

生産額ベース総合食料自給率は、経済的価値に着目して、国民に供給される食料の生産額(食料の国内消費仕向額)に対する国内生産の割合を示す指標です。

生産額ベース総合食料自給率(令和2年度)
=食料の国内生産額(10.4兆円)/食料の国内消費仕向額(15.4兆円)
=67%

カロリーベースだと、熱量の多い穀物や肉類、砂糖、油脂などの輸入に頼っている産物の割合が高くなってしまうので、自給率は下がっていく。一方で生産額ベースでは、野菜や果実などの動向が見えてくる。日本の農業を支えていく上でも米を大切にしろと伝えていきたい。

『科学はどこまでいくのか』

池田清彦『科学はどこまでいくのか』(筑摩書房 1995)をパラパラと読む。
執筆当時は山梨大学の教授を務めており、生物学を専門とする著者が、自然科学と人間の関係性について分かりやすく説明している。科学というよりも哲学書である。
本筋の議論とは離れるが、気になったので引用しておきたい。

今から約2500年ほど前に、仏教の開祖、釈迦は80歳の高齢で亡くなった。死の直前に、釈迦は弟子のアーナンダに請われて、最後の説法をする。
「アーナンダよ、なんじはここに、自らを灯明とし、自らを依り処とし、他人を依り処とせず、法を灯明とし、法を拠り所とし、他を拠り処とせずして住するがよい」
釈迦の遺言とも言うべきこのコトバは、他の宗教の教義に比べるとかなり異様である。たとえば、普通の宗教、とくに一神教であれば、神の教えにのみ従って生きよ、とか言いそうなものである。
自分と法だけに従って生きよ、とはどういうことか。法律に違反しないならば、自分勝手に生きてよい、と言っているわけではなさそうだ。
問題となるのは、法とは何かということである。(中略)法は真理であるととりあえず考えてみよう。仏教にはキリスト教にみられるような、神による創世記といった話はない。キリスト教のような一神教においては、この世界も世界の真実も、ともに神によって与えられているものである。すなわち真理はア・プリオリに(先験的に、あらかじめ)ある。仏教の法はア・プリオリに与えられているものではない。
普通の宗教の教義は、こまごまとした記述(教典)にって与えられているものである。ここでは真理は学ぶことによって得られる。しかし、仏教の法は、基本的に学ぶものではなく、悟るものである。釈迦の遺言は、「真理は自分で悟れ」と言っているように私には聞こえる。残念ながら、現在の日本の大部分の仏教は制度化され、真理は学ぶものになっているが。

釈迦は若い頃、激しい苦行をしたと、伝えられる。(中略)伝えられるところによれば、言語を絶する苦行にもかかわらず、釈迦は死を超えて生きる道を見出すことはできなかったという。
苦行を終えて河から上がってきた瀕死の釈迦は、村娘のスジャータのさし出す乳粥を食べた。その時釈迦は忽然として悟るのである。どんな偉そうなことを言ってみても、人間は大いなる自然に生かされている存在にすぎないのではないかと。自我だ俺だと騒いでみても、自我は自分が生まれることも、老いることも、死ぬことも何一つ決定することはできないではないか。私の体は自然そのものではないか。
乳粥を食べて、生気が戻った体は、牛の乳により生かされており、牛は草により生かされており、草は太陽と水という天地の恵みにより生かされている。人間は自然という大いなる生命体の一部であり、自我が滅しても恐れることはなにもない。
仏教でいちばん重要な無我という思想は、このようにして生まれたのではないかと、私は勝手に思っている。

仏教はこのあと様々な分派に分かれ、様々な教義が作られてゆくが、釈迦の思想として今ひとつ重要なのは、このような自然観を、教義を通してではなく、すなわち人に学ぶのではなく、自分の体験を通して悟れ、と言っているところにある。

『はちまん』

内田康夫『はちまん』(文春文庫 2009)を読む。
上下巻でかなりの分量だった。内田康夫氏の持論でもある、右翼や左翼の相剋を超えて、戦前の歴史を一括して否定(肯定)する幼稚な歴史観への疑問が強く打ち出されている。最後に犯人グループが雷に打たれて天罰を受けるなど、ストーリーとしてはやや破綻している。ただ、久しぶりの浅見光彦シリーズで旅上ミステリー色満載だったので、最後まで飽きなかった。

「タリバン 首都に検問所 ニカブの女性増」

本日の東京新聞朝刊にアフガニスタンのタリバンが政権樹立に向けて着々と準備を進めているとの報道があった。記事によると、街には目以外の全身を黒い布で覆う「ニカブ」を着た女性が目立つようになったとのこと。

イスラム教の聖典コーランの中で「両手と顔以外の美しい部分を隠せ」という決まりがある。髪や美しい肌によって男性を誘惑するのを禁じるためとも、女性を守るためとも言われているが、いずれにせよ女性の行動を制限する機能を有している。“いらすとや”の画像で紹介したい。

ヒジャブ(スカーフ) インドネシアや中東全域で見られる服で、髪と頭部、首を覆うスタイル。

チャドル イランで見られ、顔以外の全身をすっぽりと覆う。

ニカブ サウジアラビアなどのアラブ圏で見られ、目以外の全身を覆う。

ブルカ
アフガニスタンやパキスタンで見られ、顔マスクによって全身を隙間なく覆う。

 

ニカブやブルカを着用した国のイスラムの女性は、結婚に至るまでに自分の顔やスタイルを晒すことがない。日本でも平安期の貴族の女性はずっと部屋にいて、障子や御簾、几帳などによって、外部から自分の姿が見られないようにした。そして垣間見を試みる貴族男性に、シルエット越しに長い髪を見せたり、美しい琴の音や和歌によって魅力をアピールしたりしていた。
室町時代に能楽を大成した世阿弥の『風姿花伝』(紅茶花伝じゃないよ!)に、「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」という言葉があります。平安期の女性は自身の容姿に依らず、その美を上手く包み、奥ゆかしさを巧みに演出することで、女性としての輝きを得ていました。
平安期貴族文化とイスラム教には”ルイジ”点がありますね。イスラム教の男性が髭を生やすだけに。