『チャイコフスキーコンクール』

chaiko_book

中村紘子『チャイコフスキーコンクール:ピアニストが聴く現代』(中央公論社 1988)を読む。
ロシアで4年ごとに開催されるピアノコンクールの審査員として1ヶ月にもわたる修羅場を見つめながら、現代におけるピアノという楽器にまつわる様々な思いが述べられている。おそらくは編集サイドによる加筆が大部分を占めるのであろうが、コンクールの模様と並行して話が展開していく内容の濃い作品となっている。ピアノは18世紀の鉄加工業の発達とともにどんどん音質を向上させ、その曲想や演奏スタイルが大きく変化した楽器である。だから一応の完成をみた現代においては、作曲当時のような古いスタイルに固執するべきなのか、17世紀には存在しなかったペダルを用いるのが良いのか否か、様々な見解がある。ピアノは新しい楽器であるため、国ごとに異なって普及した背景もあり、特にヨーロッパと非ヨーロッパの間において芸術の違いが指摘されている。であるがゆえに、チャイコフスキーコンクールでは、ヨーロッパとも非ヨーロッパとも異なるロシアの演奏者が優遇されているという批判も出ているそうだ。

当然のことながら、作品というものはそれ単独では発生し得ない。例えばピアノ音楽についてふり返るならば、少なくとも過去においては、作曲理論、その表現手段としての楽器、そして演奏技法、という三者が常に互いを刺激し合い引っ張り合いながら名作を生む、という形でその頂点に達している。即ち今日のピアノ界では、その演奏曲目の中心は圧倒的に17世紀から19世紀の作品によって占められているが、それらは言い換えると、鍵盤楽器の発達とその完成への過程の魅力を溢れさせた作品といえる。現代において、この過去の数々の作品を乗り越える魅力と説得力を持つ作品を生むためには、既に発掘され尽くしてしまっていると思われているピアノという楽器の機能とその演奏技法から、想像もつかなかったような新しくしかも普遍性をもった魅力を引き出さねばならない、ここに現代のピアノの宿命ともいうべき厳しい課題がある。

また、ピアノの演奏は、コンクールレベルになると、本やビデオでそのエッセンスを伝えることができないものであり、先生と生徒の面授面受によってのみ成立するものである。この著書でも先生と生徒との信頼関係がいかに大きなものであるか各国の事情を紹介している。言葉や映像にしにくい力の入れ方や動きを学ぶ武道に通じる面もあると感じた。

演奏分野における教育とは、一般の学校教育とは当然全く違っていて、教える側と学ぶ側が一対一で向かい合うきわめて個人的な雰囲気のなかで行われるうえに、学ぶ側が若く、従って感受性鋭敏な場合が多いので、教える側がもたらす人格的音楽技術的影響の度合いは想像を絶するほど大きく、またその責任も重い。
技術の修得とは結局、先生と生徒の一対一の関係のなかで、あたかも親鳥が雛に口移しで餌を与えるにも似て、一つ一つ手をとり足をとりされながら身につけていく性質のものであって、音楽学校や音楽学生の増大といった量の問題によって変わるはずもない根本的なものに他ならないのだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください