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『「郊外」の風景に見る3・11後の未来』

本日の東京新聞夕刊に、甲南大学専任講師の社会学者阿部真大氏の『「郊外」の風景に見る3・11後の未来」と題したコラムが掲載されていた。
その中で、阿部氏は、郊外出身の最近の若者が自分の生まれ育った場所=ジモト志向が強いことを挙げ、三浦展氏の「ファスト風土」で指摘される田舎でもない都会でもない快適さのみを追求した郊外のありようについて、次のように述べている。

田舎のしがらみがなく、都会の喧騒もないその場所は、同時に田舎のコミュニティーもなく、都会のイノベーションもない場所であった。その代わり、その場所は、ひたすらみずから(とその家族)の生活にしか興味のない「私生活主義」が蔓延していった。
田舎や都会と、現代の日本の郊外の最大の違いは「他者への想像力」の有無である。形は違えど、田舎と都会には、自分とは異なる「他者」がおり、彼らとうまくやっていくことが、そこで生きる上での絶対条件であった。しかし、郊外には「他者」がいない。いないというより、むしろそれを「ノイズ」として拝することを目的として、同質的な人々が集まって郊外はかたちづくられてきたのである。
もし、郊外がポスト3・11の時代を生き抜くとするならば、その未来は「他者への想像力」を取り戻せるかどうかにかかっている。復興における「私生活主義」の弊害は明白になりつつある。(中略)

私自身、横浜のニュータウンと称される「郊外」に育ち、現在は国道16号沿いの埼玉の「郊外」で生活をしている。ともに東京まで1時間弱のの利便性の高い地域である。日常、チェーン店で食事や買い物をし、日曜日にはミニバンに乗ってショッピングモールへ家族で繰り出す、まさに「The 郊外者」である。隣近所も概ね同じ世代の同じような家族構成の家庭ばかりである。そうした絵に描いたような郊外者にとって「他者」の定義はとてつもなく広い。独身者や、外国籍、正社員ではない労働者など、郊外の同質性、それに伴う排外主義は強固である。そうしたロジックに気付いた上で、筆者の指摘する「コミュニティーとイノベーションの両者を兼ね備えた公共性」の創出が求められる。

『哀しい予感』

吉本ばなな『哀しい予感』(角川書店 1988)を読む。

先月引っ越しをしてから、バタバタな日が続いていた。この2日間は家族で過ごすことができ、少しだけ気晴らしができた。
手に取ったこの本も、日常生活から離脱し、おば(実の姉)の行方を捜しながら、おばの家、軽井沢の別荘、青森の恐山と舞台が移り変わっていく小説である。
十年前にも読んだような気もするが、私自身が日常の些事から「あくがる」ことができた。