昨日の東京新聞夕刊に、哲学者内山節氏の「時代を読む」と題したコラムが掲載されていた。
その中で、内山氏は、誇り高い労働とは、自己満足ができる労働のことではなく、「人々に尊重される労働、他者から価値を認められる労働のこと」であると定義づける。そして、現在の日本は価格や商品生産の効率化ばかりが議論され、労働そのものに対する尊重の意識が薄れていると述べる。「他人の労働をさげすみながら展開する社会は悲しい社会だ」と内山氏は嘆く。なぜなら、「自分の労働の価値を認めてもらえないなら、人間は根本的なところで不幸」であり、「こういう社会で働くことが、生活や自分の社会性を維持するための手段とはなっても、人生の目的にはならなくなってしまう」からである。
11月23日の勤労感謝の日は、戦前の新嘗祭の宗教性を糊塗するために化粧直しを施して作られた祝日である。しかし、春のメーデーと合わせて、労働の持つ意味、労働を通じた人生を考える機会としてよい時期に設定されていると思う。
労働は人間の生命活動である。この生命活動と自然の生命活動によって、私たちの社会はつくられている。この生命体のなかで暮らしていると感じられる社会をつくらないと、お互いの労働を尊重しあう社会も生まれてこない。
雇用問題という現実的な課題の解決策も急ぎながらも、しかしそれだけですべてが終わるわけではないと言いつづける勇気を、私たちの社会はもっていたい。なぜなら、根本的な課題を忘れることは頽廃だからである。
また、本日の東京新聞朝刊に、武蔵野学院大学准教授の木暮祐一氏の文章が掲載されていた。
木暮氏は携帯電話研究家として知られ、1000台超のケータイコレクションを持ち、携帯電話情報サイト「携帯24」の編集長などを経て、今年の4月から現職に就いた異色の経歴の持ち主である。
「通信インフラ(基盤)」として始まったケータイは、インターネット接続サービス導入で、「情報インフラ」となり、さらに通信とは無縁な財布代わりにもなる「生活インフラ」となった。次は、あらゆるサービスを利用できる入り口としての「社会インフラ」となっていくだろう。
木暮氏は、ケータイの成長の方向性について上記のように述べる。日本の大学では工学部を中心とした情報関連の学科にケータイなどの情報通信技術を学ぶ学科がある。しかし、近いうちに新聞学科やマスコミ学科と同じように、経済学部や社会学部に「ケータイ学科」なるものが生まれてくるのは必至であろう。