月別アーカイブ: 2009年4月

『働くことの意味』

昨日読んだ小説でもモチーフとなっていた「職」の問題について考えてみたいと思い、大学時代に途中まで読んだ本を手に取ってみた。
手にした本は、清水正徳『働くことの意味』(岩波新書 1982)である。大学で哲学を弁じる著者が、ギリシャ哲学や聖書の時代から、資本主義の生成過程を経て、現在の高度資本主義や共産主義に至るまでの労働のあり方と、今後の方向性を論じている。
キリスト教社会の人たちにとって、労働とは、知恵の実を食べてしまい楽園を追放された人間が行うべき贖罪であり、根本的に「疎外」された行いである。そうした系譜を踏まえてヘーゲルが労働の過程からの「疎外」を説き、マルクスが「疎外」論として大成していったのである。途中、ロックやスミス、ボードリヤールたちの著書を引用しながら、著者は丁寧に労働そのものを歴史的に定義づけようとしている。

ただし、私の理解力が不足しているのか、本書の内容が高度すぎるのか、著者の説明が不足しているのか、原因は分からないが、途中から読むのが苦痛になってきた。マルクスのいう「疎外」論は、現在のむき出しの資本主義の論理と派遣労働者問題に照らし合わせるて理解することができ、大変飲み込みやすいのだが、ヘーゲルの弁証法的説明やら、フォイエルバッハの「自己疎外」などは正直ちんぷんかんぷんであった。

『沖で待つ』

第134回芥川賞を受賞した、絲山秋子『沖で待つ』(文藝春秋 2006)を読む。
職場の同僚への限りない友情を描いた表題作と、妙齢の無職女性の社会への恨み辛みが爆発する『勤労感謝の日』の二作が収められている。
小説としてうまくまとまりすぎている『沖で~』よりも、『勤労~』の方が作者の感情がストレートに表出されていて面白かった。

『日本の山を殺すな:破壊されゆく山岳環境』

石川徹也『日本の山を殺すな:破壊されゆく山岳環境』(宝島新書 1999)を読む。
先日内山節氏の森林ボランティアに関する記事を読み、日本の森の状況が知りたいと思い手に取ってみた。黒部や上高地、、日高山脈、白神山地、沖縄・やんばるの森など、日本各地の森林破壊の現場を実際に歩き、現地で感じた疑問や行政に対する憤りが述べられている。
生態系を無視した開発と自然保護運動との葛藤が中心的なテーマなのだが、開発か保全かという単純な色分けはできない。例えば白神山地は世界遺産に登録されたので、開発の手からは逃れたのだが、登録された途端に、生態系保護のために地元住民すら立ち入りを禁止されてしまった。また、観光客の安全を守るために、護岸工事や林道整備が行われ、観光客が増えれば増えるほど観光の目玉である景観が壊されていくという皮肉な例もある。
著者は開発サイドからも自然保護運動からも一歩距離を置きつつ、現場の自然や地理、生態系を踏まえて考えるべきだと提唱する。そして現場を見たことすらないのに開発をごり押しする霞ヶ関の役人を批判する。

地方から都市へという毛沢東的な運動論を彷彿させるというのは言い過ぎであろうか。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」とする長距離弾道ミサイル問題について、アジアプレスの石丸次郎氏のインタビュー記事が掲載されていた。
その中で、石丸氏は北朝鮮自身の問題よりも、それに「悪乗り」しすぎる日本政府の対応と過熱報道を批判している。国内に落下物があればMDで迎撃するため日本海にイージス護衛艦、東北地方に地対空迎撃ミサイルを配備した日本政府に対しては次のように述べる。

ミサイル発射は国連決議に抵触するし、自国上空の通過に抵抗を感じることは理解できる。だが、北朝鮮の挑発的な言動に対する反応はあまりに過剰だ。道を歩いていて交通事故に遭う確率よりはるかに低い(とされる日本に落下する危険性を強調するのは)有効性に疑問のあるMDの宣伝や、選挙を意識した政治的意図があるのでは、と思わざるをえない。

そして過熱報道については次のように批判を展開している。

弱体化が進む北朝鮮軍の実態や、戦争どころではない経済の困窮ぶりを伝えるべきなのに、北朝鮮の脅威をあおるような報道は、国民をミスリードする危険性があり罪深い。
北朝鮮に問題が多いのは事実。大切なのは、その隣国とどう向き合うのかというビジョンだ。安倍政権以来、短命政権が続き、まともな対北朝鮮政策は立てられていない。さらに選挙が近づくと人気取りのために強硬姿勢を装いがち。今回も政府は北朝鮮の脅威をあおってパフォーマンスをしているようにみえる。

石丸氏の批判は正鵠を得ているように思う。反日感情を露わにした金正日がミサイルを発射するという「分かりやすい」危機に対して、「予定通り」日米軍事共同作戦のもとMDシステムが展開されているのが今回の問題である。しかし、これは10年ほど前の日米ガイドラインによる危機管理体制で想定された事態そのままである。不気味なくらい筋書き通りの展開である。石丸氏の指摘するとおり、政権を苦しめるための経済制裁や人的交流こそが求められるべき施策である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、森林ボランティアのあり方について、森づくりフォーラムの代表理事を務める哲学者の内山節さんへのインタビュー記事が掲載されていた。内山氏は群馬県上野村で実際に生活する中で人間にとって住みよい環境、コミュニティのあり方を提唱している生きた哲学者である。この記事の中で内山氏は次のように述べている。

森林の仕事は、木の切り方にしてもマニュアルはあるが、木の一本一本、曲がり具合などを見て、どう倒れるか、判断して切らなくてはいけない。さらに下の地形も考える必要がある。判断を間違えると倒れる木の下敷きになりかねない。思った以上に考える余地が大きい。また、体で覚えることも大事だ。会社のオフィスワークではあまりなかった体の感覚で仕事をする。それは人間性の回復にとても重要なことと思う。
(中略)
少し抽象的だが、森の時間で責任を持てるかどうか。木の生育を考えれば、50年、100年単位で考えなければいけない。森を守る仕事を次の世代に引き継いでいく。幸い、若い世代の森林ボランティアグループも増えてきている。世代の異なるグループが協力して一つの森を守る活動もあっていい。もう一つは、『森の荒廃』といっても、参加者の意識も多様化している。森に生物種の多様性を求める人もいれば、水源涵養や環境保全、林業的価値を求める人もいる。これからの森をどうつくっていくか、皆で考えていくべき課題だ。