昨日読んだ小説でもモチーフとなっていた「職」の問題について考えてみたいと思い、大学時代に途中まで読んだ本を手に取ってみた。
手にした本は、清水正徳『働くことの意味』(岩波新書 1982)である。大学で哲学を弁じる著者が、ギリシャ哲学や聖書の時代から、資本主義の生成過程を経て、現在の高度資本主義や共産主義に至るまでの労働のあり方と、今後の方向性を論じている。
キリスト教社会の人たちにとって、労働とは、知恵の実を食べてしまい楽園を追放された人間が行うべき贖罪であり、根本的に「疎外」された行いである。そうした系譜を踏まえてヘーゲルが労働の過程からの「疎外」を説き、マルクスが「疎外」論として大成していったのである。途中、ロックやスミス、ボードリヤールたちの著書を引用しながら、著者は丁寧に労働そのものを歴史的に定義づけようとしている。
ただし、私の理解力が不足しているのか、本書の内容が高度すぎるのか、著者の説明が不足しているのか、原因は分からないが、途中から読むのが苦痛になってきた。マルクスのいう「疎外」論は、現在のむき出しの資本主義の論理と派遣労働者問題に照らし合わせるて理解することができ、大変飲み込みやすいのだが、ヘーゲルの弁証法的説明やら、フォイエルバッハの「自己疎外」などは正直ちんぷんかんぷんであった。