月別アーカイブ: 2006年2月

現場実習総括レポート

 私自身が現在養護学校に勤務しており、学校を卒業した後の生徒の生活の様子を実地に知るともに、生徒の一生涯にわたる支援のあり方を探りたいと思い、我孫子市立の知的障害者更生施設あらき園で13日間の現場実習に臨んだ。仕事とやり繰りしながらの実習は大変きついものであったが、無事に終えることができて、ほっとしたというのが一番の感想である。

 2年ほど前から、これまでの「障害の程度等に応じ特別な場で指導」の体制が組まれる特殊教育から、「障害のある児童生徒の教育的ニーズを的確に把握し、柔軟に教育的支援を実施」する特別支援教育への移行が特殊教育諸学校で始まっている。文科省の打ち出す特別支援教育は、利用者一人一人のニーズに応じた「個別の支援計画」を作成し、乳幼児期から学齢期、そして、青年期、老年期に至る生涯一貫した支援体制の構築を目指すものであり、学校と福祉、医療等の関係機関との連携・協力が必要不可欠だとされている。私が勤務する学校にもレスパイトサービスの業者が生徒の送迎を行ったり、補装具点検や自立活動訓練などでPTやOTの方との連携も徐々にスムーズなものになっている。しかし、あくまで現在在籍している生徒についてのみで、卒業後の入所通所の施設との連携はまだまだ進んでいない。

 そして、実際に通所型福祉施設で実習を行う中で、学校機関と福祉施設の連携の難しさを改めて突きつけられた。特に実習先のあらき園は千葉県立我孫子養護学校の隣に位置しているにも関わらず、全く連絡を取り合っておらず、昨年度学校を卒業して入所した利用者の情報すら共有されていない。養護学校卒業生の簡単なプロフィールが書かれたA4一枚の「個別の教育支援計画」が送られてきているのだが、全く活用されていなかった。この結果は残念なものであったが、学校と施設の壁の厚さを改めて知るよいきっかけとなった。

 また、公立の施設の限界も色々な場面で感じた。確かに公立の施設は費用も安価で、交通の便に恵まれ、一度入所すれば死ぬまで面倒を見てくれる所である。しかし、公立であるがゆえに民間の福祉サービスとの連携も今一歩不十分である。また、市町村の枠を跨いだ他の市町村や国、県の機関との連絡調整も動きがにぶい。この公務員全体に蔓延する内向性は一朝一夕に解決するものではないが、加速度的に進む少子高齢化、居宅をベースにした地域福祉の流れに対して、特に官の側の柔軟な対応の変化が求められる。

 今回は重度の自閉症やダウン症の障害を抱えた利用者が多数通う知的障害者更生施設に行ったのだが、残念ながら養護学校に比べ日常生活プログラムに工夫が足りないと正直感じた。陶芸や農芸など利用者のニーズに応じたプログラムが用意されているが、流れ作業的に職員が利用者に対して課題を与える姿勢が目立ち、利用者が心から楽しんで参加している様子は見受けられなかった。楽器を用いて一緒に歌や音楽を楽しんだり、小道具を用いてのダンスやゲームなど利用者と職員が共に楽しむような活動を織り交ぜていけば施設全体の雰囲気も変わるだろうにと思った。また、逆に私自身が惰性に流されて仕事をしていないだろうかと反省する契機ともなった。人に関わる仕事である以上、どんな利用者であれ、どんな施設であれ、人を惹きつけるだけの「芸」を見つけ、磨きをかけていきたい。

 学校の教員は、療育手帳や支援費などの金銭面や生涯を見通した長期的な福祉が見えていない。また、施設の職員には、利用者の興味関心を高めて能力を伸ばそうとする教育的工夫が足りない。日本では長い間、文部科学省と厚生労働省の縦割り行政の悪弊が続き、現場レベルでも養護学校と福祉施設の連携が断たれたままであった。また今後においても、国家行政のレベルで教育と福祉の連携は期待できそうにない。それならば、現場における人的交流の促進が何よりも求められる。学校と施設の合同の行事や交流会を増やしたり、少なくとも半年単位で養護学校と福祉施設の職員の相互の長期研修制度を創設するなどして、学校の教員と施設の職員が気楽に酒を酌み交わす場をつくる必要があると感じた。そうした酒の席における議論や雑談の中に教育と福祉の垣根を取っ払う新しい特別支援教育の可能性が詰まっているはずだ。

『赤ちゃんが来た』

石坂啓『赤ちゃんが来た』(朝日新聞社 1993)を読む。
漫画家である著者が、自身の出産体験や、仕事を抱えて育児に悪戦苦闘する姿を赤裸々に語る。そして、育児を通して改めて社会観が変わったと著者は述べる。

私が妊娠・出産したのに合わせて、周辺にいきなり赤ん坊が多く出現するようになったのだろうか。そうではあるまい。これまでだって同じように、買い物したり散歩したりする妊婦や親子がいたはずなのだ。これまでの私には彼らの姿が視界の中に入ってこなかったのだろう。同じ風景を見てても、私には見えていなかったのである。赤ん坊のことなど一向にかまってなかったのである。(中略)そう気づいてみると、世間のことをいろいろ見て知ってるつもりでいたこれまでの経験が、かなりあやしくなってくる。(中略)赤ん坊が大きくなったら、たぶん街の中に子供たちの姿が、もっと浮上してくるのだろう。自分がからだを悪くしたとしたら、街を行く人の中に障害のある
人を多く見つけるのだろう。自分が年寄りと暮らしてたとしたら、もっと老人の姿が気になっていたに違いない。今の私に見えていない、見落としているはずの風景が、気になるようになった。世の中のことをどんなふうに見すえるかは、その人の器にかかっているのではないか。

〈児童福祉論1〉

ここしばらくぼーっとしながらも、心せわしい日々を過ごしている。
公民館で改正児童福祉法に関する大学のレポートをまとめた。

 2004年の法改正では児童相談所の機能強化が主たる狙いとして挙げられる。その運営に関しては、現場での判断や裁量に任されている部分も多く、職員の質的向上がなによりも求められる。
 2004年の児童福祉法の改正のポイントは、全市町村に児童虐待や非行・養育などの子供相談窓口を設置し、児童相談所は後方支援と深刻ケースに対応するという体制の構築と、学校や警察などが参加する地域の「虐待防止ネットワーク」を「協議会」として明確に位置づけたことと、虐待する親の立ち直りを促すために、家庭裁判所が相談所に親への指導を勧告する制度の3点が挙げられる。これらの改正によって、家庭内の親からの虐待やネグレクトなどに、市町村や児童相談所、警察、学校の4者の包括的な地域連携での対応の充実が期待されている。

1.児童相談に関する体制の充実
 第10条によって、市町村は、児童の福祉に関し、必要な実情の把握と情報の提供、そして、家庭からの相談に応じ、必要な調査及び指導を行なうことが明文化された。また、都道府県は、市町村相互間の連絡調整や情報の提供、必要な援助に加えて、広域的な見地からの実情の把握、専門的な知識及び技術を必要とする相談への対応、必要な調査並びに医学的、心理学的、教育学的社会学的及び精神保健上の判定を行なうことなどの、市町村レベルを超えた相談に対処することが規定された。また、市町村に対し必要な助言を行なうなどの、都道府県の窓口となる児童相談所の体制の強化も合わせて改正された。
 特に市町村が第一の窓口となることで、これまでの都道府県での対処よりも迅速できめ細かい対応が可能となっている。

2.要保護児童対策地域協議会について
 第25条にて、地方公共団体は要保護児童及びその保護者に関する必要な情報の交換や支援の実施状況の把握、児童相談所等との連絡調整を円滑に行なうために、要保護児童に対する支援の内容に関する協議を行なう協議会を置くことができるようになった。
 これは保護者が児童に対して虐待する事件が頻発していることや、配偶者からの暴力によって家庭を出ざるを得なくなった被害者の子どもを保護するなど、家庭内事情に踏み込んだ対応が近年求められている背景がある。

3.里親の定義規定の新設
 第6条にて、保護者のいない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童を養育することを希望し都道府県が認定する里親制度が明確に位置づけられた。新たに、47条では、里親に対して、親権の一部である監護・教育・懲戒に関して児童の福祉のため必要な措置を行なう権限が与えられ、就学の義務も明確にされた。さらに、保護受託者制度が廃止され、里親は児童の自立を支援するために、年長児童に対して職業指導を行えることになった。これは里親の元で仕事を通じて社会で自立していく力を得ることを目的としている。明確な雇用関係を結ぶものではないため、里親の義理の代償として行われる労働力の搾取にならぬよう、行政のチェックが欠かせない。

『2ちゃんねる宣言』

井上トシユキ『2ちゃんねる宣言:挑発するメディア』(文春文庫 2003)を読む。
巨大掲示板「2ちゃんねる」の管理人である西村ヒロユキ氏の素顔がかいま見えて興味深い内容であった。著者の独断的な偏見が各所に交えられており,ノンフィクション作品としての評価は低いであろう。著者が孫引きしている評論家宮崎哲哉氏の文章が良くも悪くも「2ちゃんねる」の有り様をうまく表している。

「2ちゃんねる」のような完全匿名掲示板ほど,ポストモダンを具現化した社会装置はかつてなかったと思う。テレビや新聞などの表のメディアが「上から下へ」と流れるヒエラルキー的情報伝達システムだとすれば,「2ちゃんねる」は「裏配線」。リゾーミックな,ハチャメチャに繋がった伝達回路を開いていますよね。これこそがポストモダン,「ネットワーク」の具現化だと思います。「2ちゃんねる」ユーザーには表メディアの関係者が少なくないし,いまや表裏メディアが非常に近づきつつある。表のリアリティ配給とは違った,対抗的なリアリティの形成力を秘めた仕組みに成長してきているように見えますね。(中略)人間精神の自由という根源的価値を守るために,政府は太っ腹なところをみせて,2ちゃんねるという言論の新領域を,積極的に擁護すべきだと思います。