クァク・ジェヨン監督『僕の彼女を紹介します』(2004 韓国)を観に行った。
監督も主演の女優も前作『猟奇的な彼女』と同じであり、どたばたのラブコメディで前作のような流れだろうと高を括りながら観ていたら、不覚にも目がうるんでしまった。純愛一本のストレートな映画であった。帰りに北与野の書店で早速サントラのCDを買って余韻に浸りながら帰途についた。特にX-JAPANの「Tears」という昔の曲が、映画の場面にぴったりだったせいもあり、気に入ってしまった。
月別アーカイブ: 2004年12月
『逆名利君』
佐高信『逆名利君』(講談社 1989)を読む。
「逆名利君」とは人物名ではなく、漢の劉向が記した『説苑』の中の「命に従いて君を利する、之を順と為し、命に従いて君を病ましむる、之を諛と為し、命に逆らいて君を利する、之を忠と謂い、命に逆らいて君を病ましむる、之を乱と謂う」の一説から取られた熟語である。この言葉は、かつて住友商事で会社のルールや慣習から大きく逸脱しながらも、業務本部長となり、社会の中における会社のあるべき位置について考え実践してきた鈴木朗夫氏を評したものである。「とりわけ日本のサラリーマンは、会社第一で自閉症ならぬ、”社閉症”に陥り、会社に飼われた家畜ならぬ”社畜”となって、会社と社会、あるいは自分と社会との関係を見失ってしまう」中で、佐高氏は自分のスタイルを通し、会社の枠を越えて広く、日本社会の現状を変えようとした鈴木氏を高く評価している。俳人で有名な山口誓子も住友出身であり、今は絶えてしまった住友商事のDNAが惜しまれる。
鈴木氏は住友商事在職時代に、役員でもないのに「住商の将来を考える」鈴木メモを残している。住友商事という一会社だけでなく、日本の会社風土全体に対して鈴木氏は批判を加えている。彼の批判は今もって日本の陰湿な集団馴れ合い主義の痛い所を突いている。
- お座なり、”国を守る気概”式の精神論で、守るべき国、守るに値する国の実態についての啓蒙に欠ける。
- corporate identitiy欠如、即ちframework的なものがないまま、個々のfieldで”頑張れ”を連呼する式の用兵術が依然として主流。”frameworkではめしは喰えないよ”式の誤った職人気質。即ち、知性の荒廃、ひいては倫理の後退。
- 当社職員は、全員上述のような「従来の経営formula」に合致すべく仕事をして来た。発想も行動も、いきおい従来のformulaにひきずられる。改造後のformulaに従って職員を駆り立てようと思ったら、相当大がかりな、しつこい、ただし科学的な社内教育の徹底が必要。”危機意識を持って頑張れ”は巻頭語ではあり得ても、結語ではない。frameworkを知的な方法で徹底させること不可欠。
『いま授業で困っている人に』
山本洋幸『いま授業で困っている人に:私はこうして授業をつくってきた』(高文研 1986)を読む。
長年筑波大学付属高校で教鞭を取ってきた著者が、専門の世界史の授業の進め方を紹介しながら、授業のあり方を問う。
本来授業というものは、生徒に聞かせ、語らせ、考えさせるものである。しかし授業は教師が主導で展開するものだと誤解している教師が多く、一方的に黙って断片的な知識を注入することに一意専心しているのが現状である。しかし、著者は、産業革命の進展や奴隷制の崩壊過程などを生徒との問答を通して一つ一つ理由づけしながら、正しく理解することを目指す。
私も高校時代は世界史の教師に憧れていたが、今からでも適わぬ夢ではなかろう。。。
『社会人のための大学・大学院ガイド』
日本生涯学習総合研究所編『社会人のための大学・大学院ガイド:社会人学習ハンドブック2004-2005』(2004)を読む。
中身は広告主の大学のみの紹介記事であり、わざわざ500円近くも払ってしまいもったいなかった。少子化によって学部だけでは運営が厳しく、入学の基準を大幅に下げて、社会人の大学院生をかき集めようとする大学も少なからずあるようだ。公共政策か社会福祉、障害児教育に関する大学院を探していたのだが、探せば探すほど迷ってしまう。大学であれば学生という身分にどっぷりと漬かれるので、純粋に名前で選ぶこともできるが、大学院は学費(給付制奨学金)や通学時間、昼夜開講などいろいろ生活とのバランスを考慮せねばならず、自分の人生設計そのものが問われてくるので判断が難しい。
『天野祐吉のおかしみの社会学』
天野祐吉『天野祐吉のおかしみの社会学』(マドラ出版 1993)を読む。
テレビ東京で放映していた講演が本になったもので、人間の根源的な感情であるおかしみについて多角的な分析を加えている。なぜおかしさが発生するのか、そしてその効能や作用について具体例を用いながら分かり易く解説されている。
(映画を見ながら)そのときに思ったんですが、笑うところが違う人って、もう一つ共感できないんですね、エイリアンみたいで。やっぱり共通の笑いを持ってる人というのは安心できる。同じところをおかしがっているということが、素朴な人間的つながりを生んでいくペースになっているんですね。
もちろん同じところで笑っても、何をどうおかしがっているのか、その中身は人それぞれです。だから、人のおかしくないことを自分がおかしいと思ったときに、「あれ、おれは人と違うんだなア」という、自分自身の発見にもつがるわけで、そこにもおかしみのすぐれた効用があるわけですが、それにしても、人がおかしいときに自分はぜんぜんおかしくないということがつづくと、これは生きていけなくなってしまいますよね。