『車掌だけが知っているJRの秘密』

 斎藤典雄『車掌だけが知っているJRの秘密』(アストラ 1999)を読む。
 前半は中央線の車掌として検札のつらさや遅刻や事故の際のどたばたが微笑ましく描かれているのだが、後半は国労の組合員として会社からの差別に闘い、東労組のいじめに耐える国労組合員の悲哀に満ちた日常が淡々と述べられる。

 著者には「断固闘う!」といった闘争団の意気は薄く、1047名の闘争団との距離感を正直に吐露している。そして、下記のように著者は国労本部に対する批判を述べる。その中で、著者は乗客の安全と安心を第一としながらも、仲間同士笑いながら、飲みながらやっていける労働者本来の職場を目指す足がかりとして再び国労を選びとっているのだ。

 問題は「闘う」がドグマとなることだ。誤解を恐れずにいえば、いつも活動家だけが固く結束し、お決まりの寝言のような演説をぶち、盛り上がっているだけなのだ。国労の組織は激減し、弱体化したのは事実なのに、活動家は、「一人一人の団結と闘う意識はより強固なものになった」などといい切る。私はそう思わない。不当な差別が長期化し、自分の利益にならないからと脱退していく一般組合員があとをたたないのが現状だ。国労は彼らを責めてはいけない。もうたまらん状態なのだ。もしここで強硬な戦術でも打ち出したりすれば、組織は再び大混乱に陥り、団結は崩れ、脱退者は増える一方だろう。正しい理論が必ずしも統一した実践に結びつかないのが運動の難しさなのだ。

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