村井実『教育思想(下):近代からの歩み』(東洋館出版 1993)を読む。
古代ギリシャのソクラテスやプラトンから、ルソーやヘルバルトを経て、現代のデューイまで一貫して、「善さ」を持った人間を育てるのか、「善さ」に向かって人間を育てるのかという教育哲学の根本原理に立ちかえって整理し直し、現代の教育を巡る問題にまで照射している労作である。教育史のすべてが分かったような気がする。また1946年にアメリカ教育使節団が提出した「アメリカ教育使節団報告書」を改めて熟読してみたが、わずか3週間あまりの滞在であったにも関わらず、日本の教育問題を浮き彫りにしている。現在参院選で教育基本法の改革が論点となっているが、その教育基本法の成立の土台となったこのレポートをもう一度読み返した上で、論議を重ねてほしいものである。
日本の教育制度は、その組織についても、カリキュラムについても、近代の教育理論に基づいて当然改革されねばならなかったのであろう。その制度は、一般大衆と一部の特権階級とに別々の型の教育を用意する、高度に中央集権化された、19世紀的パターンに基づいていた。
教授の各段階には、期待されるべき一定量の知識があるとして、生徒の能力および興味の差異を無視する傾向があった。指令、教科書、試験、および督学によって、その制度は、教師が職業的自由を発揮する機会を減らしていた。教育の効果は、標準化や画一化がどの程度達成されたかによって測られた。
いかなる国家においても、忠誠心と愛国心が望ましくない、ということはない。ただ、それらをいかにして、適当な代価をもって確保するかが問題なのである。無条件の服従や盲目的な自己犠牲は、代価としてはあまりに高すぎる。個人の知性は、忠誠心や愛国心と引き換えに売り渡してしまうには、あまりに貴重である。そのうえ、教師も生徒も画一化してしまうとなれば、群衆心理が作り出されやすい。
このようにして、日本の教育制度は、多くの点で、生徒を現実社会に適応するように育てることに失敗した。その原因は、学ぶ側の理解なしに、これらの目的が教えこまれたことにあった。