月別アーカイブ: 2004年6月

『教育思想(下):近代からの歩み』

村井実『教育思想(下):近代からの歩み』(東洋館出版 1993)を読む。
古代ギリシャのソクラテスやプラトンから、ルソーやヘルバルトを経て、現代のデューイまで一貫して、「善さ」を持った人間を育てるのか、「善さ」に向かって人間を育てるのかという教育哲学の根本原理に立ちかえって整理し直し、現代の教育を巡る問題にまで照射している労作である。教育史のすべてが分かったような気がする。また1946年にアメリカ教育使節団が提出した「アメリカ教育使節団報告書」を改めて熟読してみたが、わずか3週間あまりの滞在であったにも関わらず、日本の教育問題を浮き彫りにしている。現在参院選で教育基本法の改革が論点となっているが、その教育基本法の成立の土台となったこのレポートをもう一度読み返した上で、論議を重ねてほしいものである。

 日本の教育制度は、その組織についても、カリキュラムについても、近代の教育理論に基づいて当然改革されねばならなかったのであろう。その制度は、一般大衆と一部の特権階級とに別々の型の教育を用意する、高度に中央集権化された、19世紀的パターンに基づいていた。
教授の各段階には、期待されるべき一定量の知識があるとして、生徒の能力および興味の差異を無視する傾向があった。指令、教科書、試験、および督学によって、その制度は、教師が職業的自由を発揮する機会を減らしていた。教育の効果は、標準化や画一化がどの程度達成されたかによって測られた。
いかなる国家においても、忠誠心と愛国心が望ましくない、ということはない。ただ、それらをいかにして、適当な代価をもって確保するかが問題なのである。無条件の服従や盲目的な自己犠牲は、代価としてはあまりに高すぎる。個人の知性は、忠誠心や愛国心と引き換えに売り渡してしまうには、あまりに貴重である。そのうえ、教師も生徒も画一化してしまうとなれば、群衆心理が作り出されやすい。
このようにして、日本の教育制度は、多くの点で、生徒を現実社会に適応するように育てることに失敗した。その原因は、学ぶ側の理解なしに、これらの目的が教えこまれたことにあった。

『世界の歴史がわかる本:ルネッサンス・大航海時代〜明・清帝国編』『同:帝国主義時代〜現代編』

綿引弘『世界の歴史がわかる本:ルネッサンス・大航海時代〜明・清帝国編』『同:帝国主義時代〜現代編』(三笠書房 1993)の2冊を一気に読んだ。
民衆の力によって歴史が動いてきたそのダイナミクスを古代史から一貫して現代までまとめあげている。是非世界史を勉強する受験生に読破してもらいたい良書である。また歴史を学ぶことで今後の現代を占う指針が導かれるとし、本書でも重ねて歴史の繰り返しと歴史から学ぶ人類の叡智を強調している。そして最後に次の言葉で現代編を締めくくる。

イタリアの歴史学者クローチェが「すべての歴史は現代史である」といったのは、人間は、現代社会でぶつかっている課題、そのときの人間の置かれた立場、その時代の制約のなかで、過去を評価してきたのであり、それがその時代の、その地域の人々のすべての歴史となると意味であろう。
宇宙船地球号の危機(地球規模な環境破壊)に直面したわれわれは、まさにこの危機を救わねばならぬという課題に直面しているわけであり、この課題を解決するという視点から、過去の人類の全歴史を洗いなおし、評価しなおすこと、その過程で人類の自然破壊の歴史を明らかにするとともに、その人類が、その時々の自然破壊の危機を乗り越えようとしてきた歴史を掘り起こすことを通じて、現代の課題をどう解決するかの道を模索することが求められているのではないだろうか。

『下妻物語』

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昨日、茨城の岩井へ映画『下妻物語』(2004 東宝)を観に行った。
冒頭は完全なギャグ漫画風なタッチであったが、後半は友情をテーマにした青春映画に変わっていった。ちょうど週刊少年ジャンプで連載されていた『キン肉マン』と似たような展開である。深田恭子の演技もうまくて見終わった後充実感のある映画であった。帰りにミーハー根性丸出しでJR下妻駅まで立ち寄ってみたら、案の定映画の宣伝スチールが貼ってあり、映画と全く同じ駅の佇まいに少し感動してしまった。

「学校って何だ」

本日の東京新聞夕刊の以倉紘平氏の「学校って何だ」というコラムが興味深かった。少々長いが転記してみたい。

 学校改革、教育改革が進んでいる。平成15年度の「文部科学白書」は、高校教育の個性化、多様化をうたって次のように述べている。〈生徒の能力・適性・興味・関心・進路などが多様化する中で、各学校が生徒それぞれの個性を最大限に伸長させるためには、学習の選択幅をできる限り拡大して、多様な特色ある学校づくりを進めていくことが大切です〉

一見、良いことづくめだが、ここには巧妙に覆われ、隠されていることがある。それが〈学級〉〈級友〉というクラス集団、共同体の軽視、否定の思想である。生徒の個性、多様な欲求のニーズに応えようとして、〈学習の選択幅を拡大〉すれば、その理想型は、ミニ大学のようになり、生徒は各自、時間ごとに自分の選択した科目に応じて教室を移動することになる。単位制高校ともなれば、なるほど、本人の進路希望に合わせて、柔軟に履修科目は設定できるが、生徒は登校しても固定した自分の教室も机もない。学校からの連絡は、掲示板か所定のメールボックスに文書で通知される。単位の取得についてはすべて自己責任、自己管理の原則が貫かれるのである。

いったい「責任」を果たすべき、「管理」すべき「自己」、未成年者である人間の教育は、どこで行われるのであろうか。かつて〈学級〉は、人生と人間を学ぶ舞台であった。級友との対話、対立、競争、理解、協調、団結、友情等々。学級は泥んこになって集団と個人の関係を学び、自己を主張し、他者を理解するきわめて重要な教育の場であった。

「学級崩壊」という言葉がある。学級が自浄能力をなくしていじめの温床と化している現実からすれば、学級を軽視する教育行政の考えはわからないでもない。しかし、その結果として個性の伸長、開花の大義名分の裏側で、生徒たちはますます巧妙に分断され、他者との関係、他者との深い絆を失って、それぞれが自己の欲望の充足、個人生活の向上、消費生活の充実の方向へ誘導されて行くのである。

知識、単位の取得だけなら、学校はいらない。家庭にいて、インターネットで十分である。厖大な人件費も設備費も必要でなくなる。学校は、人間を教育する気概と情熱を持たなければ、いずれ無用の時代がやって来るだろう。

『世界の歴史が分かる本:古代四大文明〜中世ヨーロッパ編』

綿引弘『世界の歴史が分かる本:古代四大文明〜中世ヨーロッパ編』(三笠書房 1993)を読む。
高校・浪人時代、古代史というと有名な王朝の名前と王様の業績を暗記することに終始していたが、改めて復習してみると歴史の流れが感じられて面白い。例えば筆者はアケメネス朝ペルシアとギリシアとのペルシア戦争でのギリシアの勝利を次のように評価する。

ヨーロッパでは、ギリシア時代の民主政治とその文化を、西洋文明の古典として過大に評価してきたという歴史があることも忘れてはならない。そのため専制的なベルシアの民主的ギリシアへの侵略というペルシア戦争の常識は、やがて専制的・暴力的・侵略的なアジアに対して、民主的で自由なヨーロッパという、ヨーロッパ人の立場からの世界史をとらえるヨーロッパ中心の歴史観形成の第一歩となったのである。そしてその考え方は大航海時代以降のヨーロッパのアジア侵略、植民地化を合理化する論拠となっていった。

またマケドニアのアレクサンダー大王の東方遠征については次のような評価を加えている。

アレクサンダー大王の遠征は、ギリシアの内部矛盾を東方遠征によって解消しようとしたものであったが、国内矛盾を外にそらすことは、古代から現代に至る世界史の重要な法則であると断言することができる。為政者は、自己の支配・統治に対する国民の不満が高まり、政権が危機に立たされたとき、その国民の不満を他に向けることを考えるものである。その際、他国、他民族と事をかまえると、いやおうなしに国内の結束が求められるし、愛国心や同胞意識に訴えやすいため、為政者への不満は外に向けられ、政治危機は遠のく、という図式が働くことになる。まして植民地獲得戦争に勝利するともなれば、ギリシア人の東方植民のように、国内では恵まれず不満をかかえていた人たちが新天地を求めて植民地に流出するし、植民地支配による利潤獲得にも与れることになり、為政者にとっては一挙三得であった。
ずっと後に、典型的な帝国主義者といわれるイギリスのセシル=ローズは「われわれ植民地政治家は過剰な人口を収容するために新領土を開拓しなければならない、彼らが内乱を欲しないならば、彼らは帝国主義者とならなければならない」と明確に主張している。また、第一次世界大戦にロシアは積極的に参戦したが、当時のロシアの内相マクラコフは「内乱の危機は、国をあげて武器をとること以外におさえる道はない。戦争こそ国内の敵よりのがれる唯一の道である」と語っている。