湯本香樹実『夏の庭』(新潮文庫 1994)を読む。
近所の老人の死に触れることで、子供たちが自分なりに生と死を理解しようとする爽やかさが光っていた。展開に無理なところもあるが、現代っ子同士の関係が丁寧に描かれていた。
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『そういうふうにできている』
さくらももこ『そういうふうにできている』(新潮社 1995)を読む。
妊娠の話であったが、男には理解できないであろうマタニティーブルーや帝王切開に望む緊張がうまく彼女なりの言葉で描かれていた。保健や家庭科の授業でならう教科書的な無機的出産や母性とはことなる驚きが素直に書かれている部分を一部引用してみたい。
授乳を始めるとますます子供に愛情が湧くとよく言われているが、私には愛情が湧いてくる余裕が無かった。私も子供もお互いに必死であった。私は”死なすまい”と思い、子供は”死ぬまい”と乳を吸う。実に生々しく、ヒトは単なる動物にすぎないとあらためて実感した。私達は本能にプログラムされている種の存続という任務を忠実に遂行しているのだ。子供は誰から教わらなくとも乳を吸う手段を身につけており、私もこの生命を死守しようとしている。愛情とは違う。似ているが別モノだ。
『新巨人の星』
今日は早く帰ってきたので、夕方埼玉テレビで梶原一騎原作『新巨人の星』(1977~1978)を観た。
左肘を壊した星飛雄馬がオールスター戦にて守備固めで外野に入り、南海の角田が打ったライトフライを右グローブを飛ばして、右投げでホームに全力投球をするという、まさに「新巨人の星」の序章的展開の場面であった。昔のアニメは動きが少ないため、登場人物が「凍りついて」いると、ついこちら側で登場人物の心理を深読みしてしまう。星飛雄馬の野球トラウマに囚われた神経質な人物像もアニメのセル画数の少なさに起因するのであろう。
『四月の海賊たち』
五木寛之『四月の海賊たち』(文芸春秋 1971)を読む。
全共闘的な純粋な世界観(それ自体問題だが)と資本主義的な露悪な世界とのギャップが様々な登場人物を通して描かれていた。
今日は時間があったので近所にある埼玉県立春日部高校の図書館へ出掛けて来た。決して大きくはない図書館なのに、年間貸出数が一万冊を越えていることに驚いた。読書離れが指摘される中、学校図書館、地域図書館問わず、さまざまな取り組みを学ぶ必要がありそうだ。
『変革者〜小泉家の3人の男たち〜』
梅田功『変革者〜小泉家の3人の男たち〜』(角川書店 2001)を読む。
小泉又次郎、純也、純一郎の3代に渡る政治家の概略を追ったものだ。3者それぞれ時代も政策も異なるが、政権与党内での反体制というスタンスは3代変わらないようだ。また「国会議員は国の政治に専念すべきだ」との純一郎の言葉にある通り、地元誘導型の政治を否定している点も3代変わりない。