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本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊に、タレントでエッセイストの小島慶子さんのコラムが掲載されていた。ちょうど私と同年代で小学生のお子さんがいらっしゃるということもあってか、今の私に向けて発せられているような気がしてならない内容であった。
短い文章だったので味わいながら引用してみたい。

子育ての話をしていたら、ある男性が言った。「今は忙しい親が増えている。子どもと向き合うためには、接する時間を長くするべきだ」。まじめな父親なのだと思う。正論だ。だが、危うさも感じた。どんな人間関係も、長い間一緒にいさえすれば分かり合えるというものではない。母子密着の環境に苦しんでいる親子は多い。子育てに熱心な父親の過干渉に悩んだ人もいる。関係の健全さは一緒にいる時間の長さに比例すると思い込むと、人と向き合うことの本質が見えなくなる。
子どもには親との接触が何よりも大事な時期がある。忙しい親は皆、悩みながら子どもを育てている。私もそうだ。でも子どもはストップウォッチで親といる時間を計ったりしない。自分に全力で「あなたは誰?」と問いかけ、何よりも大切だと抱きしめてくれる人が誰か、子どもたちはうんと小さいときから見分けることができる。子どもが行かないでというときに、そうだね、同じ気持ちだよと切なく抱きしめてやる親の気持ちを、彼らはちゃんと分かっている。
時間の長さや行事の数で親が成果を計っても、子どもは記録では育たない。数えられないものを一瞬で与えることも奪うこともできるのが親子だ。数えずに向き合う関係は、他人の目では量れないものだと思う。

「公立校は『狭き門』」

本日の埼玉新聞朝刊に「公立校は『狭き門』」と題した記事が一面に大きく掲載されていた。今月4日にさいたま市で開かれた「日本語を母語としない子どもと保護者の高校進学ガイダンス」(県国際交流協会など主催)の模様が報じられていた。

写真に私の姿も写っているかと目を皿のようにして探したが、どうもタイミング悪く写っていないようだ。

記事によると、今年3月の県内中学生の高校進学率は98.6%に達する一方で、日本の高校への進学を強く希望しながら、言葉の壁や入試制度に戸惑ったり、学費などの面で躊躇する外国出身の生徒もかなりの数がいるとのこと。ガイダンスはそうした生徒の相談に対して県と民間団体が一体となってサポートしている事業である。当日は中国、フィリピン、ペルー、フラジル、パキスタンなどから来日し、埼玉県内で生活する約200人が参加し、県高校教育指導課の担当者の説明や通訳付きの個別相談で熱心に話を聞いている。

〈記事から引用〉県教育局は1996年度入試から県立高校に「外国人特別選抜」を設けている。2010年度から現行の数学、英語の学力検査と面接で選考。13年度は12年度と同様に岩槻、草加南、南稜、深谷第一、和光国際、蕨の6校で実施される。定員は各校上限10人で、10年度は受検者47人に対し、合格者は15名人という「狭き門」となった。11年度は35人が受検し、15人が合格。12年度は28人が挑戦、合格したのは11人だった。

県教委は、ブラジルの貧困地域に12年度から14年度まで定期的に職員を派遣し、コンピュータ操作を教えたり、日本の絵本や人形劇などを題材にして表現力を養う支援活動を始めている。
しかし、問題は海の向こうではなく、埼玉県内で起きているのである。60人という入試枠がありながら、日本の生活やクラスに馴染みそうにない生徒を半分以上も落としているのが実状である。まずは足下の県立高校教員の異文化理解の態度や、「全体の奉仕者」という憲法に明記された公務員としての姿勢から正すべきであろう。

改めて教育基本法を持ち出すまでもない。地元埼玉において、言語の習得如何を問わず、全ての生徒が全日制普通科教育を受けるチャンスを平等に活用す入試制度のありようを問い直していきたい。

性犯罪被害者の中絶費用公費負担制度

本日の東京新聞夕刊に、性犯罪被害者の中絶費用の公費負担制度に関する記事が出ていた。2006年度から始まった強姦の被害者に対する人工中絶費用の支給は、国と都道府県が折半して医療費を支給している。31都県では上限を設けずに、初診料や診断書料まで含めた全額が支給され、被害者の経済負担はゼロとなっている。ただし16道府県では支給上限額が設けられている。警察庁では上限の撤廃を求めているが、その上限額も和歌山の17万5000円から山形の9万円までばらつきがある。
性犯罪ましてや妊娠までしてしまう犯罪は被害者の人権を大きく踏みにじるものである。様々なケアが必要であるが、せめて経済的な負担だけはゼロにしてもらいたいものだ。

さらに、記事は性犯罪被害者の現状に詳しい富山市の産婦人科医種部恭子さんの話でまとめられている。種部さんは「現在は原則、性犯罪被害者は警察に被害届を出さなければ経済的な支援を受けられない。(しかし)被害届を出す、出さないにかかわらず、支援する機関を通して公費で医療費を負担するような仕組みが必要だ」と話している。

種部さんは医療機関の立場から、スムーズな被害者支援策を述べている。しかし、被害届を出さないままの支援だと、かえって被害者が泣き寝入りしてしまうことにならないだろうか。こういった事件では加害者未定でも、加害者を追求する意味で被害届をきちんと出す必要がある。その上で被害届を出しやすいような医療機関のサポートや、その後のケアが必要になってくると考える。

本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊は読みごたえがあった。
25年続いている恒例の靖国ルポは8月15日の朝から夕方までの靖国神社での動きを伝えている。数年前までは戦争肯定に傾きがちな靖国参拝に反対する活動の様子が記載されていたが今年はなかった。実際に活動がなかったのか、記事にされなかったのかは分からない。一方で、学生や若い社会人の参拝の様子が伝えられ、右派的言論が目立つように思う。
今年6月に尖閣諸島を海上から視察した野田数東京都議は「自民や民主はダメだ。英霊が命をかけて守ってくれた国土だ。靖国と領土問題は切り離せない」と話している。しかし、靖国への参拝と領土問題を簡単に英霊というキーワードで結びつけてしまう短絡的な発想は正直怖いと思う。

また、他の紙面では「日米同盟と原発」と題したシリーズ特集の第1回が掲載され、戦前の幻の原爆製造「ニ号研究」の様子が詳しく報じられている。
当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者の仁科芳雄氏が開発責任者となり、原爆開発計画が軍主導で進められていた。結局、ウランの濃縮実験やウランの調達に支障が生じ、開発は中止に追い込まれることになった。しかし、その仁科氏の下で学んだ若い門下生らが戦後、「平和利用」と名を変えた戦後の原子力開発の礎となっていった。

原爆というと、日本では被害者のイメージが強いが、加害者として他国に原爆を投下する予定で計画が進んでいたことに驚いた。戦後の原子力開発との流れと合わせて問題を見ていきたい。

対談 澤地久枝さん×松本哉さん

本日の東京新聞朝刊に2面に渡って、作家澤地久枝さんと東京・高円寺でリサイクルショップ店を経営しながらデモをしてきた松本哉(はじめ)さんの2人の日本再生の道筋についての対談が掲載されていた。

自身の戦争責任を踏まえて「九条の会」を呼びかけ、脱原発運動に関わる澤地さんと、1990年代の就職氷河期以降の非正規雇用の増加やネットの普及による本音の触れ合いの場の減少に悩む若者の声を上げる松本さんの二人が、経験こそ違え、閉塞した社会システムや「撤退」の二文字のない政治に対して、一致して個人の生活感を基盤とした素人デモに希望を託している。

旧満州で終戦を迎え、国家から置き去りにされた棄民体験を持つ澤地さんに対して、松本さんは次のように語る。

大学に入ったのは1994年。経済団体が正規雇用を減らし、非正規労働を増やすと言い始めていたころで、就職氷河期です。入社試験を百社受けても、一社もひっかからない人がざらにいました。
大学側も「大学を企業に役立つ人材づくりの場に変える」と言いだした。学生も就職のための点数稼ぎのように、つまらない授業でも真面目に出る。僕は下町育ちでやんちゃでしたから、就職予備校みたいなのは息が詰まって。
幸い、法政大は個性的な人がまだ大勢いて学生運動もあった。自由さが残っていたから、僕も何かやろうと、キャンパスに鍋やこたつを持ち込んで、ばかばかしいノリの大宴会をやったんです。料理やお酒も用意して、学生や先生に「飲んでいきましょう」って声をかけて。めちゃくちゃな人が集まって楽しかったです。
「キャンバスに自由を」とか「大学改革は間違っている」とか、ただ言っているよりも、自由な空間を実際に味わう方が断然説得力があると思いました。

また、原発デモについても、次のように語る。

日本のこれまでのデモは、組合のおじさんが旗を持ってスローガンを叫ぶ、というイメージだったと思いますが、今は、自分の理想とか、生き方とかをデモの中で表現しているんです。
トラックの上でバンド演奏したり、パフォーマンスをしたり。原発反対のゼッケンをつけて黙々と歩く人もいます。怒りたい人は怒って、表現したい人は表現して。そういう自由さが世の中を変える力になる気がするんです。

澤地さんが撤退や熟慮することをせず「大勝」「成長」と突き進み、最後は誰も責任を取ろうとしない政治や社会の「無責任体系」に疑義を呈したところ、それに対して、松本さんは次のように語っている。

これまでの日本には、予定調和の塊みたいなものがあったと思うんです。「この空気を乱していはいけない」という。戦争の時もそうだったんでしょうけど、我慢に我慢を重ねて、みんなひどいことになったんじゃないですか。
かつては、頑張れば経済成長もあったかもしれないけど、それは、自転車操業というか、止まったら倒れるようなやり方だった。金を稼いで消費することが豊かさだとか、相当な競争に勝った人だけが豊かになれるとか。そんな価値観や発想から離れて、これからはもっと自由に生きる方がいい。

そんな松本さんに対して、澤地さんは次のように述べる。

小田さんは60年代に「ベトナムに平和を! 市民連合」という市民運動を起こし、「一人でもやる、一人でもやめる」と言っていました。個人が自分の思いをまとめて行動すること。それが世の中を変えていくと。原発事故を経験した今の日本人に訴えかけてくるようです。松本さんの自由な発想とか行動って、少し、小田さんに似ているような気がします。

最後に松本さんは次のように語っている。

脱原発に揺れている人は大勢います。原発は危ないと心配しながらも、脱原発の生活が見えないから、原発の推進側に取り込まれてしまう。だからこそ、僕らは安心して子どもを育てられて、老後も不安のない、持続可能な生き方をやる。そんな生き方が世の中で大きく見えてきたら、揺れてる人も脱原発に傾いてくるんじゃないですか。有象無象がガチャガチャと、何回でもデモをやんなくちゃいけない。そういう時代です。