先日受けた小学校認定試験の合格通知が速達で送られてきた。通信で勉強すれば30万近い学費と2週間の教育実習が必要となるのだが、一発試験だと、たった5600円の受験料と3日間の試験で小学校2種免許が取得出来てしまう。おそらく今後使うことはないと思うが、ピアノの勉強も含め良い経験であった。
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『春の雪』
『社会人大学生入門』
影山貴彦『社会人大学生入門:社会人だからこそ楽しめる』(世界思想社 2002)を読む。
近年、生涯学習の進展により、通信制大学や夜間大学院など社会人向けの「学び」の場が増えている。しかし、その中身は「高度職業人養成」を目的としたもので、MBA取得やロースクール、ビジネススクールなど、資格取得や実務直結の「学ばされる」勉強が過半数を占める。会社のため、将来のために、睡眠時間を削り、家族との触れ合いも減らすガンバリズム一直線の生活を強いられるのが通例であった。しかし、著者は、「時間を有効に使うのだ!」と肩ひじを張って大学院に行くのではなく、日々の生活の中で置き忘れてきたちょっとした向学心や、年齢を重ねる中で見えてきた分からないことを見つけに行く場と捉え直してよいのではないかと述べる。
みなさんも「忘れもの」を取りに行きましょう。「社会人大学院」は、みなさんの忘れものがちゃんと置いてある場所なのです
『「戦後民主主義」と教育−呪縛を解く』
鳴門教育大教授小西正雄『「戦後民主主義」と教育−呪縛を解く』(明治図書 1995)を読む。
著者は、「人権教育」「異文化理解教育」「環境教育」「平和教育」など多岐に亙る分野において、「戦後民主主義」という妖怪が跳梁跋扈していると言う。その妖怪は威勢の良いスローガン主義や精神論を振り回すだけで、国家や権力を悪の元凶と位置づけ、「正義」を自任する左派勢力のことである。つまり「人間は皆平等」「環境破壊は人間優先の思想の結果である」「平和こそが全て」といった否定できない「正義」を掲げるだけで、「戦後民主主義」は何も創り出さず、ただただ教育の荒廃を招いただけだと著者は批判している。さらに「戦後民主主義」はただ知識を「教える」だけの形だけの教育に安住し、生徒の自主性や個性を奪ってきた。
そこで、著者はこれまでの「知的好奇心を原動力とする情報量格差解消型の授業」や「〈つかむ−調べる−まとめる〉型の硬直化した授業」を脱し、学校教育という教育制度のもつ2つの特質−「集団的」と「計画的」−を生かす授業を提案する。すなわち、作文やディベートなど生徒の表現を引き出す舞台をセッティングし、その集団から生まれてくる生徒の個々の問題に対する価値判断の「ズレ」を生じさせ、その「ズレ」を授業の題材としていく新しい授業のあり方を示唆する。
ここまで書いて分かったのだが、いかにも明治図書的(これまでの硬直化した知識偏重の入力型授業を否定し、生徒の主体性・個性に依拠した出力型の授業の提案)な主張を形を変えて繰り返すだけで、特に新しい内容は無い。その上、西尾幹二や曾野綾子の文章をあちこちに引用した露悪な本である。
『これが初任者研修の実態だ!』
藤井誠二『これが初任者研修の実態だ!:「ものいわぬ教師」づくりへの道』(あゆみ出版 1988)を読む。
臨教審答申が出された頃の教育状況を追ったもので、文科省による「管理教育」「管理職を中心とした学校運営」「受験競争の激化」「日の丸・君が代強制」といった右派的改革と、日教組や全教などが打ち出す「生徒主体の教育」「現場からの積み上げによる学校運営」「創造的な人格の完成を目指す教育」「平和教育の推進」などの戦後民主主義的スローガンの、はっきりした対立軸に沿って初任者研修を説明している。日教組・社会党の路線変更などあり、右も左も分からなくなってしまった現在から見ると、その二項対立の単純さに懐かしさすら感じる。
インタビューに応じた教員の話であるが、過去の生徒観から抜けきれず、型にはまった授業しか出来ない中年教員こそ研修が必要だという指摘は今もって変わらない。

