高橋源一郎『文学なんかこわくない』(朝日文庫 2001)を読む。
競馬の予想屋という印象の強い著者であるが、本業の文学批評においては硬質な文章を展開する。
「小説は(文学は、広くは本は、といいかえてもかまわぬが)言語だけでできている、だから使用されている言語がダメなら、その小説はアウトなのである。このことに例外はない。さらにもう一つ、小説は最後まで最初の一頁と同じ物質でできている、ということである。このことにも例外はない。だから最初の一頁を読めばすべてわかるのである」の主張のもと、藤岡信勝の『教科書が教えない歴史』の序文や、渡辺淳一の『失楽園』、加藤典洋の『敗戦後論』などをテクストレベルで完膚無きまでに批判を加えている。
さらに、話は「政治と文学」論争に移り、高橋氏は、政治も文学も言葉でできている以上、結局は文学も政治も同じものだと述べる。つまり、言葉はそれぞれの言葉を作り出した人間の世界の中で丁寧に吟味され、矛盾のないよう選ばれるものであるため、それぞれの言葉を使う者は自分の正しさを疑わない。そのため、いつしか言葉が独り歩きを始め、「言葉が作り出した空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」のみが表出してくる、それが言葉の持つ本質的な政治性である。言葉を扱う以上、「誤る」ことは必然であるのに、言葉の政治性は突き詰めていくと、「やつは敵だ。殺せ!」と自らの正当性の保証する最終手段へと一気に突き進んでいくしかないのである。
高橋氏は文学を次のように定義する。
文学とは結局のところ、その国語によって、その国語に拘束された空間を越えていこうという試みだからだ。文学だけがそれを可能にする。そして、その試みの中にしか、文学の根拠はないのである。